檸檬



「あ、私淹れてきます」

 例の如く勝手に上がりこんだ古本屋『京極堂』のお座敷、兼、書庫。腰を浮かせた彼を後ろから呼び止める。

「君は客人だ、座っていたまえ」

 そう制す和装の主に、手さげ袋の中に忍ばせていた小さな包みをのぞかせた。

「紅茶を、買ってきたんです」

 読めもしない英字が羅列する洒落た包装紙にくるまれたそれは、物の用事で寄った行き慣れぬデパアトで買ったものだ。ロゴタイプの飾り文字が可愛くて、つい手にとってしまった。

「生憎、カステラに番茶を添える無粋者の暮らす我が家に、ティーポッドのような洒落た物は無いよ」
「急須で充分です。私だって、ティーポッドで淹れたお茶なんて喫茶店くらいでしか飲みませんから」
「すまないね。排他主義を装うつもりはないが、押し寄せる異文化に迷いなく手を伸ばせるほど若くもない」

 僅かに微笑み、するりと懐から伸びた手で顎を摩る。その仕草も、変化に乏しい仏頂面も、彼の癖だ。

「代わりと言うわけじゃあないが……ちょうど知り合いから貰った紀ノ川産の檸檬がある」
「檸檬ですか!」
「これは常温で保存した方が甘みが増すと聞いたからね、ほら」

 立ち上がった彼はそう言うと廊下の片隅、日向ぼっこをする愛猫の横に佇む小さな箱から黄色い果実を取り出した。

「……綺麗な色」

 縁側から流れ込む日差しに照らされたその実から、ふわりと甘酸っぱい芳香が漂う。その瑞々しさに、私の恋心がつられて無防備になる。一つ手渡そうとこちらへ伸びた手のひらを、私は両の手で包み込んで目を閉じた。廊下に流れる沈黙。ものの数秒、我に返った私は見る間に赤くなる顔を誤魔化すように、視線を窓へと向け言った。

「愛に忠実、」
「……なんだい?」
「檸檬の花言葉、です。あまりに良い香りだったからつい」

 アテられてしまったみたい。咄嗟の良い訳をこぼし、その少女趣味加減にまた顔が赤くなる。しかし珍しく何も返してこない彼も、もしかしたら僅かながら動揺しているのかもしれない。くすりと笑みが漏れた。なんだかくすぐったくなり、俯いたまま肩を震わせる。

「今日は随分、感受性が豊かなようだ」
「すみません。中禅寺さんでも知らない事があるんだなぁと思って」
「僕が花言葉に詳しくても気持ち悪いだろう。ロマンチストな三十路過ぎというのも、ぞっとしないぜ」

 ふふ、ともう一度微笑み、卓上の包みに手を伸ばした。そのパッケージを確認した彼が片眉を上げる。

「おや、しかしその茶葉はダージリンのようだね」
「ええ、ミルクの方が合うんでしょうが……私は檸檬でいただきます。中禅寺さんは、」

 台所へと向かう足を止め、出来るだけ意味深な笑みをつくり振り返った。

「ミルクにします? 檸檬にします?」
「……檸檬で、お願いするよ」

 溜め息交じりの笑みを返し、そう答えた彼は充分にロマンチストだと思う。僕も少し、忠実になってみようか。そんな呟きが後ろから聞こえた。

2008.?.?

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