机を挟んで向いに座る座敷の主は、相変わらず一時たりとも手元の頁から目を離そうとしない。
「中禅寺さん、私の顔は白黒の文字の羅列よりつまらないものですか」
「そうだね。比較するのは難しいが、今のところ羅列から目を離す予定はない」
「こんな顔をしてもですか」
「あまり頬を膨らませると皮が弛むよ」
「……なんで見てもないのに解るんですか?」
「君は不満があると決まって膨れるじゃないか。それとも僕が今まで見たこともないような珍妙な顔をしていたのかい? それなら是非見てみたいが」
「……」
一定の速度で文字を追いながらも、私を難無く丸め込む中禅寺さんの頭の中の方がよっぽど見てみたい。こんな素晴らしい秋晴れの日に、座敷に篭って一カ所に視線を留めつづけるなんて絶対に健全な行いじゃないと、私は思う。今日は風だって心地好いし、太陽の光だって夏と違って穏やかで優しい。男女が手を取り合って散歩に出るにはもってこいの日和だ。
それなのにこの腰の重い石地蔵ときたら。はあ、と溜息をつく。
「中禅寺さんは秋彦なんてロマンチックな名前をお持ちのわりに、淡泊な人ですねえ」
「おいおい、名前は関係ないだろう」
「ありますよ。言霊っていうでしょう。『れいじろう』より『たつみ』の方がいかにも質素で女々しい。さもありなんです」
「その例えもどうかと思うが……。生憎、近頃はめっきり屋号の方で呼ばれるものでね」
「『きょうごくどう』……確かに意味深で手強そうな響きですよね。根付くわけです」
「……そう言う君は、名前のわりに物怖じしない人だ。君と話していると僕は随分ペースを乱されるよ」
そんな事を言いつつ頁を繰る速度に乱れはみられない。憎らしい。
「ろくに弁の立たない私への嫌味ですかそれは……」
「とんでもない。すぐに押し黙るどこぞの小説家に比べれば、弁が立つどころじゃないよ」
「……やっぱり嫌味じゃないですか」
「大概遠慮というものがないなあ君も」
関口君だって年上だぜ、あんな風采だが。そう言って少し笑った中禅寺さんに心が揺れる。
「……中禅寺さん。中野の商店街にある和菓子屋さんの、水饅頭を食べたいと思いませんか」
「それはいいね。水饅頭は僕の好物だ」
「では早速出掛けましょう」
「水饅頭は好物だが、読書は呼吸のようなものだ。悪いが今のところ水饅頭に勝ち目はない」
……ああ、呆れた人だ! 本当に。
「あのねえ、今は秋ですよ秋彦さん!」
「わかってるよ。読書の秋だ」
「いいえ食欲の秋! 色恋の秋です!」
「二つ目は聞いたことがないね」
「とにかく! 秋の夜長というくらいです。昼のうちから読んでしまうなんて、読書好きにあるまじき行為ですよ。勿体ない!」
「……よくわからないが落ち着きなさい。わかった、ここは一つ食欲の秋の方に顔を立ててみるよ」
「そうして下さい。たまにはいいでしょう」
「ああ。それに色恋の秋とやらも、少し気になるからね」
いつの間にか本から顔を上げていた中禅寺さんと目が合う。彼は愉しそうに笑っている。不意打ちに心臓がおかしな音をたてた。
「秋の夜は長い」
不平等条約
私とあなたの間には、それが結ばれている気がしてならない。なにしろ役者が違いすぎる。後日、関口さんにその話をすれば「あの出無精が仕事以外で腰を上げるなんて、君に手をとられた時か火事で家が燃えた時くらいのものだよ」と呆れ笑いを浮かべていたが。
2009.?.?