月にきみの影が落ちる



 坂の上にいた。私の好きな人はいつでも。

 それは偏に彼が出不精なことの証明でもあったが、とにかく私は坂を登れば彼に会うことができた。
 桜が咲いたと告げに行き、夕立にあったと駆け込み、庭の柿を両手に携え、暮れの寒さを見舞い、本当にたわいもない話をする。変わる季節を理由にして私は彼を訪れた。まるで漱石先生のお話のようだと思ったりもしたが、中禅寺さんは何も世捨て人という訳ではない。限りなく利益還元乏しいとはいえ商売もしているし神主という役職もあった。同じところは彼にも妻がいること。そして一番違うところは、私が女ということだ。
 間取りすべてが書斎と化した家屋は古い書物の匂いに満ちていた。インクよりも墨が強い。彼の嗜好の問題だろう。垂直と平行に象られた空間に彩りを添えるのは、奥様のきれいな声と音にならぬ猫の歩みだ。定点観測のように訪れるそこは、時の流れそのものだったように思う。しかし反して、場所自体は眠ったように変わらなかった。
 そうして私が幾度訪ねても、彼はこの関係に対して悲観的なことを口にしたり、失望を促したりはしなかった。事実は小説より甘い。だから私は、ここに来るのをこれで最後にしようと思った。

「冷えるね」
「はい」

 私の持ってきた葉付きの柚子を腕に下げ、お勝手口で中禅寺さんが言った。彼は台所が似合わない。しかし今日は千鶴子さんが留守のようだった。

「皆既月食があったが、君はあれを見たかい」
「見ましたよ。私月になりたいと思ってるんです」
「ふむ、君の突拍子のなさもいよいよ病的だな」

 月になりたい私は、しかし星ではなく人だ。中心にすえて回るものがあるとすれば、それは愛する人じゃなかろうか。坂を登ればこの人がいる。でももう、近付かないと決めたのだ。私は彼の衛星になるのだ。

「中禅寺さんはずっとここに居て、回る月を見ていてください」
「ここに居てというが、地球だって太陽の周りを回るよ」

 私は空を見上げた。冬の高い空を優しい陽光が覆っている。

「太陽は奥様でしょうね」
「言いえて妙だね」

 無愛想な彼が妻に本音を言うことはないだろう。私はそれすら羨ましく感じた。私にも何かしらの想いを秘めていればいいと思う。言わなくていいから、ずっとずっと胸に秘めていて欲しい。

「私、中禅寺さんに一つ隠し事があるんですよ」
「そうかい。教えてくれる気はないんだろうね」

 最後の好機をあっさり砕かれ、私は彼の顔を出来るだけ真似るよう笑った。

「中禅寺さんって本当は優しい人だけど、本当の本当はすごく酷い人です」
「そんなことはない。しかし僕も一つ、君に隠し事がある」
「教えないで」
「教えないさ。でもきっとよく似た類のものだ」

 やだな、嘘ばっかり。太陽に照らされた地球の上で、私は少し泣いて目をこする。

「嘘を吐くのは好きじゃないんだが」
「それも嘘でしょう」
「どうだろうね。好きじゃないものが、苦手とも限らない」
「さようなら」

 冬の日は短い。もうじき月が昇る。
 私はその前にここを去らなければいけない。


2011.12.22
装飾『僕は回転する宇宙のようになれない』

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