二度目の楽園



 ピトーの円にすっぽりと収まった夜空が少しずつ西へ回り、私たちはちょうど夜の真ん中にいた。眠れずに宮殿の塔に出ると、いつでもそこに王がいる。一体彼はいつ寝ているのだろう。

「王、選別までの日も残り僅かです。少し休まれては」
「夜の方がいい手が浮かぶ」

 彼はそう言って手元の石をカチリと重ねた。負けず嫌いの王様がここ数日、機嫌を損ねることなく少女と盤を挟んでいるのはほぼ奇跡のように思えた。彼は彼女を愛しているのだろうか。そんな憶測に悶々とする下世話な自分に比べ、月に照らされる王の横顔はどこまでも純粋に見える。彼にあるのはおそらく性欲ではなく生殖欲だ。私のような俗物の思い描く煩悩とは、まるで異なるのだろう。
 ただ一人、女王の腹からその全てを貰い受け生まれてきた、種族の長。人間を原型にしたキメラアントの私とは何もかもが違う。違うはずなのに、私は最近の彼を見るたびに言いようの無いざわめきを感じる。
 私には人間だった頃の記憶がない。今の自分が自分の全てだ。反旗を翻した連中の顔を見るとそれは幸せなことのように思うが、執着できるほどの何かを持つ彼らが少し羨ましくもあった。前世というにはあまりに近い、二度目の誕生以前の自分。私は何を信じ何を愛したのだろうか。

「コムギはちゃんと生活できているのか。人間の衣食というのはいまいち解らん」
「彼女はあまりそういったこだわりがないようです。よく寝て、よく食べています」
「その割には馴染じまんな。道に迷うし、よく転ぶ」
「王、恐れながら、コムギはここに来てまだ三日です」
「三日、三日か……」

 王は呟いて少し視線を落とした。思案している時の表情だ。

「しかし余とて、生まれてからそうは経っていない。時間とは決して……一律ではないのだ」

 合理主義の王が文学的な表現をするのは珍しかった。私はまた少し苦しくなる。

「盤上には、現実とは違う時間が流れているのでしょうか?」
「そうかもしれんな」

 少しだけ笑い、彼は真っ直ぐにこちらを見た。誇り高い彼はどんな時でも自嘲的な表情などしない。

「自分が何のために生まれてきたのか考えたことはあるか」
「……王の護衛軍である私にそのようなことを聞くのは、些か滑稽ではありませんか」
「お前の意志を聞いている。称号や立場に甘んじ自分の存在に疑問を持たぬ奴は、所詮そこまでの働きしかできん」

 それは恐れ多くも、王本人に向けられた言葉のように聞こえてしまった。生まれながらに存在を確立され、またそれに沿う能力を持っていた彼が、全く違う理屈で生きるか弱い生物に触れた時、モラトリアムのような状態に陥るのは当然と言えよう。

「……王は、迷っているのですか」
「余の問いだ」

 重い視線に睨まれ、分を弁えない自分に冷や汗をかく。

「申し訳ありません。……迷っているのは私です」
「何を迷う」
「私は自分の行動の因果を、説明することが出来ません。本能、と言ってしまえばそれまでなのですが……」
「本能に忠実に生きるには、蟻は感情を持ち過ぎたと?」
「いえ……」
「余への忠義は薄れたと申すか」
「いいえ……!その逆です」
「逆?」
「私は、王を、貴方様を……」

 何故今更になって迷うのか、何故こんなに苦しいのか。それはきっと"蟻"の部分じゃない。この言いようもない恋慕の正体は──。
 そうだ、コムギがやって来てからの王は彼に、彼に似ている。彼? ああ、彼とは私の……。

「……私は結局、過去のしがらみを何も捨てられていなかったようです」
「……」
「不純だと咎めますか?」
「しがらみなどと言ってやるな。大事な者だったのだろう」
「……はい。あなたは蟻に殺された私の恋人によく似ています」
「そうか。上手くいかぬものだな」

 円の中の空は澄み切っている。私の心の中では忠誠と思い出が混ざり合い、目の前はぐちゃぐちゃに乱れ、彼の姿を見ることすら出来なくなってしまった。

「お前も余が憎いか」
「……わかりません」

 彼に嘘は通じない。私は私の解る限りでは、王を憎んでいない気がした。しかし王にはその奥が見える。それが怖く、羨ましくもあった。

「明日からも頼むぞ」
「……え?」
「二度言わすな」

 夜に響く王の言葉は、種族を超えて私の中に落ちてくる。涙を拭いて顔を上げた。彼の背中は既に遠くにある。全ての矛盾を飲み込んで、私は王を護ると誓おう。 私は俗物ながら、彼を愛しているのだ。


2012.9.6

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