「名前──」
彼は静かに、しかし有無を言わさぬ強さをもって私の名前を呼んだ。自分の名前の響きに酔ってしまうほど、心地のよい声だった。私は一つ息を吸って顔を上げる。彼、クロロ=ルシルフルはいつもの様に椅子に座り片手に本を携えていた。
定期的に発令される『召集』及び『活動』が無事(相手からしたら大惨事)終わった後、仮宿には蜘蛛の団員数名と私を含む協力者幾人かが残り、各々時間をつぶしていた。実のところ旅団員たちは召集命令問わず、こうして一緒に居ることがわりにある。そこにクロロが加わっていることは珍しいが。
「呼んだ?」
「ああ、名前。ちょっとそこに四つん這いになってみてくれないか。足をこっちに向けて」
「……なんだって?」
資質の問題
聞き返した私の顔と手元の書物を交互に見ながら、彼は無言を貫いている。クロロは変人だが変態ではないし、おかしな性癖を持っているとも聞かないので、何か深い意図あってのことだろうと思い私は素直に従った。何か次の作戦に向けて、生物学的な観点からのアプローチを模索しているのかもしれない。そう思ってじっとしていると、何か杖のようなもので思い切り足の裏を押された。
「……!? 痛い痛い痛い!!」
「ふむ」
「なんなの……!」
「いや、この本に四つん這いの状態で足のツボを押すと物凄く痛いと書いてあってな」
「あってなに!? 物凄く痛かったよ!」
「そうか……すまない」
彼は目を閉じ一度うなずくと、優雅に俯き読書に戻った。私はキレた。
「あんたそうやって最もらしく顔伏せれば、ほぼ何でも許されてきたんでしょ今まで! 前々から思ってたけどね、甘すぎるのよあんたの周りの人間はあんたに……!」
団員同士のマジギレは禁止だそうだが、私は団員じゃないのでマジでキレた。彼は団長だが、私は団員じゃないのでマジでキレた。
「そんなことない。と思う」
彼は少し驚いた顔をしながらも冷静に答える。そんなところにも腹が立つ。
だいたい少年じみたラフな姿の彼を知っているせいか、こうやってオールバックにキッチリ決めてほくそ笑んでいる姿などを見るとむず痒くなる。まあ彼はいつでもどこでも自然体だし無理をしない質だから、どちらも素のクロロ=ルシルフルに違いはないのだろう。彼に悪気や作為はないのだ。それでも彼が今まで天性のカリスマ性によりなぎ倒してきたいくつもの罪なき常識のために、私はキレた。
クロロは確かに変わっているし何を考えているか解らないけれど、ヒソカやイルミなどのツッコむ気力を根こそぎ奪っていくような手遅れな人種とはまた違う。彼らは基本個人主義。何をして人格を疑われようとそれは本人の自由だ。しかしクロロは曲がりなりにも団の長。信頼や尊敬は欠かせない。
貧困と泥にまみれ育ったはずの彼に、どこか品のような物が備わっているのは皆が認めるところだ。だからこそ流星街出身の彼らはクロロを蜘蛛の頭に据えているのだろう。しかしそれとこれとは別だ。品があろうと悪気がなかろうと、人の足ツボを前ぶれなく押すべきではないのだ。というかいつもスカした顔してそんな下らない本読んでたのか。
「しっかりしてよクロロ! あんまり自由過ぎるとそのうち誰もツッコんでくれなくなるよ? ツッコミの向こう側に行くってことはね、ヒソカやイルミと同じ世界に生きるってことなんだよ?」
「……それは少し嫌だな」
「でしょ? 一回行ったら戻ってこれない悲しい世界だよ。人間一度諦められたら信頼を取り戻すのは容易じゃないんだ。見てごらんよ、だからヒソカにはもうイルミしか友達がいない」
「さっきから聞いてれば、随分ひどいこと言うねえキミ」
ヒソカの横やりを聞き流し、クロロは思案に耽る。彼の良いところは人の話を真剣に聞いてくれるところだと思う。悪いところはそれによって下される結論が独自すぎるところだとも思う。
「解った。名前にはもう迷惑かけないよ。パクやマチに頼むことにする。彼女たち、俺にはすごく寛容でね」
「だからそれが駄目だって言ってんのこのド天然たらしが……!」
「名前はよく怒るな、ヒソカ」
「聞け!」
私はやはりキレた。百年経っても旅団には入れそうもない。
2012.2.7