東のサンクチュアリ



 彼の行動原理が理解できなかった。何もかも解ったような顔をして、その実自分のことさえ解らないような不安定さが危うすぎて、とても近くに居たいとは思わない。しかし彼の周りには人が集まった。それも質の高い人間が。彼は自分の危うささえ楽しんでいる気がある。快楽主義かと聞かれればそこまでイカれてない気もするので、娯楽主義といったところか。彼はたくさんのものを持っていた。盗んだものも多かったが、それ以上に元から在るものが多いのだろう。
 何もなく全てがある場所で生まれたクロロは、境遇には恵まれなかったが才能には恵まれていた。容姿にも人間性にも。誰よりも貪欲でいて、全てを投げ出す覚悟すら持っている。その性質は彼の念能力にもよく顕れていた。
 とにかくゴミ山育ちのこのエリートは、全てがミスマッチでアンバランスだ。そしてそれがたまらなく、魅力的でもある。酷い話だと思った。闇側の人間のくせに頻繁に光を欲しがって、臆することなく手を伸ばす。本人がいくら気にせずとも、両側を知っている者からすれば狂気の沙汰だった。闇は薄めても闇だ。平気で見せるあどけない顔の中にも、その影は度々よぎった。
そうしてサブリミナル効果のようにじわじわと私の心を染めていく。私はまだ明るい場所にいたいのに。

「私、蜘蛛に入る気はないから」
「どうしてもか?」
「私は私として一つの生物でありたいの。誰かの手足になるなんて真っ平。それに私、足の多い生き物って苦手なのよね」
「なにも俺の手足になれと言うわけじゃない。時には頭を無くしても動くのが蜘蛛だ。機能性を越えた上下関係はない」
「だからその機能性が嫌なの! 8本でも嫌なのに12本ってなにそれ!」

 いつか見た団員の刺青を思い出してゾッとする。造形も在り方も、私には合わない。

「そうか。なら仕方ない。お前が団員でないことに救われる日も……まあ、来るかもしれないしな」

 窓の外を見つめしばらくの間思案していたクロロは、そう言って組んでいた手のひらをほどいた。幕引きのようにカランカランと喫茶店のドアが鳴る。広くない店内に入ってきたのはお隣に住む老夫婦だった。私は少し笑って会釈をする。ひなびた小さな村だ。私はここで静かに暮らしていたい。
 しかし、彼が自分の欲しい物から簡単に手を引くところなど初めて見たものだから内心で驚いていた。私を誘う以上、どうあっても行かざるを得ない条件や制約を提示してくるのだろうと半分諦めてもいた。納得できなければ戦うつもりでもあった。
 その時の彼の言葉を、私はよく理解していなかったのだ。皮肉を言われたのかと思ったがそうではなく、彼自身こんな日が来るのを予期していたのかもしれない。


 彼は何も言わず、私の横でコーヒーを飲んでいる。蜘蛛の頭は、切り離され人に戻った。
 あの大げさな格好や、髪を上げた姿を最後に見たのはいつだろうか。こうしていると繊細で物静かな文学青年にすら見えてくる。平和な村にもよく似合う。

「午後は喫茶店に行こうと思うけど、クロロは?」
「……今日はお隣が顔を出す日じゃなかったか?」
「そうね。火曜日はお隣のご夫婦がよく来るわね」
「あのばあさん、俺を見るたびに子供はまだかと聞いてくるんだよな」

 クロロはパタンと本を閉じ頭をかいた。この田舎じゃ、村中が彼を私の旦那と思っているだろうけど、それは言わないでおく。娯楽主義の彼は課された状況を仕方なしに楽しんでいるだけなのだろう。生きるのが上手い男なのだ。
 しかし騙し絵のように潜む黒い影が、薄れるどころか日増しに濃くなっていくのを私はたしかに感じている。

「随分暖かくなったな」
「もう春よ」

 彼は伸びた前髪をきれいな指でかき上げた。蜘蛛がその形を取り戻す日も近いのかもしれない。


2012.3.19

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