03─水の行き先
沿岸部の戦線はじりじりと北へ上がっているようだ。岩泉部隊の活躍も大きいらしく、戦場で檄を飛ばす彼の姿が目に浮かんだ。
一方の俺は、冴えた目で自室の壁を見つめながら、お湯で薄めたウィスキーをちびちびと傾けていた。ウィスキーに湯を入れるなんて阿呆のすることだと、むかし暴れ曹長に言われたことがあったけれど俺はこの飲み方が好きだった。そんなに強い方ではないのだ。けれど飲まなきゃいられないときもある。部屋の壁は無機質な白だ。そこをじっと見つめていると、過去に見たものや今の胸の内が活動写真のように映し出されては消えていく気がした。起きながら夢を見るなんて俺も随分器用になったものだ。薄暗い室内のデジタル時計は222のぞろ目を踏んでいる。
ふいに気になって、捕虜収容室のある管理棟の方を見た。俺の部屋から見えるのは彼女のいる個別収容室の、対角側の壁面だけだ。その内側には監視用のモニタールームがあり、警備兵が一人常駐している。……一人、の筈だ。外階段に動く二つの影を見つけ、いぶかしく思った。この時間、佐官以下の兵士の私用外出は認められていない。彼らは誰で、一体あそこで何をしているのだろう。異常があればすぐに俺の元へ連絡が入るはずだし、そのために警備を置いているというのに机上の通信端末はうんともすんとも言わなかった。酒にゆるんだ意識が再び張りつめるのを感じながら、部屋着のシャツを脱ぎ、クロークを開ける。
そこにたどり着いた時、現場にいたのは夜勤を任せている下っ端の兵士だけだった。しかし人の気配がする。先ほどまでこの場に数人の男がおり、何かをこそこそと目論んでいた気配だ。仕事柄そういうものには鋭い。わずかに残った匂いなどから、彼らが大分高揚していたこともわかる。目の前の男の様子からだってそれはありありと伺えた。酸性の汗、生臭さ、揺れる瞳孔。あまり現場上がりの人間を舐めない方がいいと、目を細める。
「及川少佐……こんな時間に、如何致しましたか」
「眠れないのは俺だけじゃないみたいだな。楽しめたか?」
穏やかな声で問いかけて、個別捕虜室のドアへ目を向けた。可哀相なほどわかりやすく全身の神経をそちらに向けていた男は、案の定肩を震わせ、けれど俺を止めることなどできるはずもなく俯いた。室内に入れば下卑た気配は一層強くなる。検分するまでもなく、それは牢の床にうずくまっている女から発せられていた。格子のきわに手錠で繋がれた彼女の髪にはべっとりと精液が付着している。電子キーにより開閉時間が記録されるこの牢に、下っ端の兵士が無闇に入ることはできない。彼女で遊ぶために彼らがどんな言葉を使ったかはわからないが、手の届く距離に拘束され一方的な辱めを受けたことは明らかだ。
「繋いだままなのは、まだ来るから? それともお前用?」
「……」
「俺のためにとっておいてくれたのかな?」
「……そ、れは」
「お前の名前くらいは知ってるよ。大体の人間関係もな」
「しょ、少佐……!」
「なに、拷問まがいの尋問してる俺だって捕虜取扱法なんてはなから守る気はないんだ。けど、外出禁止令や状況報告の原則くらいは知ってるよね?」
「……はい」
真っ青になっている男の年齢は二十歳かそこらだろう。尻の青いガキに軍規を舐められていることは腹立たしいが、捕虜の前で自軍の兵士を罰してもしょうがない。彼らの処分はあとで考えることにして、俺はひとまず手持ちの鍵で牢を開けた。手錠を外すよう指示し、退室命令を下す。そこに、ちょっとしたアドバイスも添えた。
「いいか。お前はすぐにモニタールームに戻らず、外階段で一服する。その間に情けない面を引き締めなおせ」
「は……はい……っ」
二人になった牢内に、彼女の静かな呼吸が響いていた。取り乱しているようには見えない。べたついた髪の影で、彼女はやはり腕についた手錠痕を見ていた。洗面用に掛けられている粗悪なタオルで汚れをぬぐってやり、腕を掴む。彼女の軽い体は力加減のへたくそな俺の動作にかかれば驚くほどいきおいよく持ち上がり、つま先がわずかに浮いたほどだった。
素直な部下が涼んでいるうちにと、そのまま牢から引っぱりだして空のモニタールームを横切る。俺の着ていた黒い外地用のジャケットを被せ、管理棟の裏から寄宿棟の方へ向かった。寄宿棟の端には見取り図に書かれていない小さな出入り口がある。現地帰りの上層士官たちが速やかに愛人を連れ込むための通用口だ。裸足のまま俺の手に引かれ、物も言わずついてくる彼女の顔は困惑と警戒心にあふれていた。階段を上り、鍵を回す。連れてこられたのが俺の自室であるとわかると、その色はさらに強まった。
「シャワー、つかいな」
「……」
「あー、着替えあったかな。俺のは無理か」
呑気に背を向けてクロークを繰っている俺の後ろで、彼女は呆然と立ち尽くしている。今夜のようなことが今までにあったかどうかはわからないが、酷いことをされたかと思えば急に甘やかされ、彼女にしてみれば自分の立場をいいように弄ばれている心地なのかもしれない。しかしそんな心境はどうでもよかった。捕虜用の粗悪なものとは違うやわらかなタオルを無理矢理持たせ、シャワールームに押し込んだ。少佐ともなるとあてがわれる部屋もそれなりで、広くはないが一通りの設備が内装されている。どうするかとしばらく聞き耳をたてていたが、存外早く聞こえてきた水音に胸を撫で下ろした。三日に一度ほど支給される冷たい濡れタオルだけじゃ、年頃の女は辛いだろう。そのうえ今日の仕打ちだ。シャワーくらいで傷が癒えるとは思えないが、心が荒んだときにあたる温かなお湯がどれほど心身をときほぐすかを知っている。
俺はしばらくぼんやりとシャワーの音を聞き流してから、彼女に着せられるものはあっただろうかと戸棚を開けた。どこを見てもLLの文字だ。明日にはきっと彼女用の着替えが衛生兵の元へ届くだろうが、せっかく綺麗にしたあとで生臭い衣服に袖を通させるのもかわいそうなので、体術訓練時に使っていたぴったりとしたインナーと綿のハーフパンツを取り出した。バスタオルは俺のでいいだろうか。新しいのがないかと、引き出しを漁る。が、女子をお持ち帰りした学生のような行動に、俺は一体何をしているんだと我に返り、首を振った。バスタオルなんてなんだっていい。洗濯かごにあるへたった奴だっていいくらいだ。妙な意地が宿った俺は、本当にそれをかごから引っぱりだして、洗面所の扉を開けた。
さすがにまだ終わっていないだろうと思ったのに、早々に上がったらしい彼女が一糸まとわぬ姿でそこに立っていたため瞠目した。思わず持っていたものを床へ落とす。彼女も驚いてはいたけれど、やはり声を上げることはなく、シャワールームに隠れもせずにただ俺を見ていた。濡れた髪が黒く光り、白い体へと弛んでいる。先日見たはずの傷痕は、こうして見ればひどく扇情的だった。思わず手を伸ばし、手首を引き寄せる。よろめいた彼女の体が俺の服を濡らし、高揚のままに、洗面台に押しつけた。
生ぬるい水の味のする彼女の背中は硬くざらついていて、女のなめまかしさなんていうものとは対極にあった。けれどひょいと裏返してしまえば、そこらの少女と同じだ。栄養不良から発育が芳しくないのか、もしくは本当に思っているより若いのか、服を剥がれた彼女の印象は非常にあどけないものだった。鎖骨の溝をなぞりながら、おとなしく伏せられている、長い睫毛の先を見つめる。ぽたりと雫が落ちて足の甲が湿る。鏡に映る自分の顔を見るのが怖くて、目線を下げた。白い床にちらちらと、何かが映っている。過去のことだろうか。今のことだろうか。俺は強く目を閉じて息を吐き、つま先から這い上がりつつある凶悪な劣情が脳へ届いてしまう前にと、彼女から手を離した。投げ出していたバスタオルを拾い上げ、大きく広げる。小さな子どもにするように、体ごと包み込み抱きしめた。
強く抱いてようやくわかったことは、彼女の体の奥の奥の、細い芯のような場所が微細に、けれども絶え間なく、じりじりと震えていることだった。脱力した手足にまで伝わらないその震えはおそらく訓練でも抑制でも殺せない、本能的な怯えだ。生き物としての防衛本能を心の奥に閉じ込めて、彼女は俺に全てをあずけている。あきらめている。
俺は鼻の奥がつんとするのを感じながら、今日は熱が出るのかもしれないと思った。こんなにも眉間が熱くて、喉が痛くて、心が重いのは風邪を引いているからに違いない。泣くのを堪える息苦しさなんて少年の頃に置いてきてしまったのだから思い出すことはできない。きっとこれは風邪だ。風邪にしたって最後に引いたのがいつかなんて思い出せないけれど、彼女すら泣いていないこの瞬間に軍人の俺が泣くなどあり得ないことだ。自分の感情を押し殺そうとするあまり、強く込めてしまっていた腕の力を抜き、覗き込む。もとより薄い体がつぶされてぺらぺらになってしまったのではと不安になり、肩のあたりをさすった。痩せぎすなくせして不思議なほど柔らかな二の腕が、ほよほよと手の中で揺れる。俺の挙動が不安定なことに困惑しているのか、彼女は伏せていた瞼をゆっくりと上げて、俺を見た。
「おいで」
横抱きでかかえ上げベッドへ寝かす。タオルの上から布団をかぶせて、俺もその隙間にもぐり込んだ。
「明け方、戻してやるから」
小さく言うと、そばでまたたいていた瞳がそっと閉じる。なすがままの彼女は雨の日に拾われた子猫のようで、無力で、か細く、愛らしかった。都合の良い幻想を抱きながら、俺も目を閉じる。俺はまだ人間をやれているだろうか。
2015.12.14