02―前方
水晶体にはった薄い膜が俺を映している。その像が脳みそにまできちんと届いているのかは怪しいが、瞳孔の動きを見る限り意識はあるようだった。彼女に打った薬は人格を破壊するまでのものではない。
「どう?」
「脈は弱いですが安定してます。脱水が問題ですね」
「塩分糖分、入れてあげな」
「さっき300終わりました」
「足りないでしょ」
けれど心身の消耗は当然激しく、ろくに物を食べているのかもわからないこの体じゃいつ危なくなってもおかしくはない。彼女に死なれて困るのは俺たちのため、捕虜室の簡易寝台には衛生兵を一人付けていた。空になった点滴の袋がコウモリの抜け殻のようにじっとポールに垂れている。奴らは脱皮なんてしないし、いつだか戦場の洞で見た大群はいやになるほどけたたましかったけれど。
「聞こえる?」
覗き込んでいた顔にむかい問いかけると、彼女はわずかに目を見開いて、顎を引いた。どうやら反射で起き上がろうとしたものの、うまく力が入らないようだ。その目に映るのは怯えというよりも困惑だった。自分の状況を計り兼かねているのかもしれないし、わかった上で俺たちの行動に疑問を抱いているのかもしれない。
「お前の強情さはよくわかったよ。今後の身辺管理は総てこちらでさせてもらう。この先生の言うことをよく聞いて、早くまともな判断力を取り戻すことだね」
俺の言葉に力なく眉を寄せた彼女だが、さりげなく、ぐるりと部屋中に視線を走らせたのを見逃さなかった。細かく瞳孔を揺らしていたが、自分の腕に巻きついたベルトの先が寝台に固定されているのを見とめ、静かに目を閉じる。今は大人しくしていようと諦めたのだろうか。点滴薬が取り替えられたのを見計らい、衛生兵を部屋の外へ連れ出す。
「どれくらいで使い物になりそう?」
「……その前に、先生はやめて下さい。及川さん」
「おいおい、少佐と呼べよ国見衛生二等兵」
ふざけた口調で軍帽に触れると、彼はつられて敬礼をした。染みついた反射行動が滑稽で思わず笑ってしまう。金田一の同期である彼は、肉体労働を忌諱するあまり医学の方向に才覚を伸ばし続けた、根っからの理系軍人だ。故郷を同じくする彼も古くからの付き合いであるため、このような現場で遭遇するのは些か据わりが悪い。「兵隊さん」にただただ敬意と憧憬を抱いていた幼き頃と比べ、互いに擦れ汚れてしまっていることがなんともいえず恥ずかしいのだ。
「そうですね、栄養状態は見た目ほど悪くないです。三日程度で回復すると思いますよ」
「ああ、そう」
「もちろん、本人にその気があればですが」
そんなことは知ったことじゃなかった。けれどそこが一番の問題なのだろう。女の捕虜を扱うことは、ここ三年の中でもたったの二度目だ。尋問室に入れる間もなく舌を噛みちぎった一人目を、果たして扱ったと表現していいのかは疑問だが、とかく女というものは激情に走ることが多い。
「轡噛ませとくかあ」
「いや、彼女は必要ないと思いますよ」
「お前もそう思う?」
「はい。積極的自害はしないでしょうね。おそらくまだ……何かを諦めてない」
この後輩とは昔から何かと気があった。合理主義故の冷静さはあてにするに値したし、冷静なわりには捨て切れない情熱を心の奥に持ち合わせている、不思議な男だ。鬼の曹長も、情に厚い憲兵上等も、彼には一目置いていた。
「まあ何にせよ、諦めてもらう他にないけどね」
扉の向こうで虚ろに天井を見上げているだろう女を思い、たまらない想いがこみ上げた。手のひらが熱く湿っている。近頃は自律神経がまともに働かなくて、いけない。
*
国見の言ったとおり、彼女の容態はそこまで悪くならずに上向いた。目の潤みは日に日に厚さを増していき、彼女の若い体が徐々に瑞々しさをとり戻しつつあることがわかる。けれど肩や胸は相変わらず薄い。塩水を舐めるばかりで物を食べないのだからしょうがない。案の定と言うべきか、生命機能を維持するのみに留まる彼女から積極的な回復の意欲は見えない。死なないのならそれでいいが、一言も言葉を発さないのだから彼女の喉がまともに機能しているのかすらわからなかった。外傷はないらしいが、この状況では心因性の要因だって充分にあり得る。
「椅子、ここに置くよ」
トイレの時以外つねに寝台に繋がれていた体に、牢内とはいえ自由が戻ったのだからもう少し嬉しそうな顔をすればいいと思う。三日間の拘束で紫に変色した手首をじっと見つめながら、彼女は視線を下げている。男なら、とっくにぶん殴ってここでの序列を叩き込んでいるところだ。食事用の椅子と机まで運び込まれた破格の待遇だというのに、彼女が心を開く気配はない。女の少ない支局の中、彼女の可憐な容姿も手伝い、北風と太陽のごとくお陽さまを照らそうと媚を売る警備兵が絶えないことは知っている。
「聞こえてる? ものが言えない?」
手にした配膳用のトレイで彼女の顎を上向かせ、ゆっくりと問いかけた。怯えられても面倒だが、舐められるのはもっと面倒だ。強制的に視線を上げさせられた彼女は、じっと俺の目を見つめ返し、しかし、口を開こうとはしなかった。反抗的、とまではいかないが強い意志のようなものを感じさせる目付きだ。俺は思わずトレイを投げ捨て、頬を直接掴みあげた。頸動脈に中指を添えて圧迫する。安っぽいプラスチックの音がコンクリートにこだまして、彼女の筋肉が少しだけ強張った。
「声を出さないなら、こんな喉は必要ないね」
少しずつ、指に力を込めていく。薄く柔い皮膚の下の脈動がだんだんと速くなる。こんなに脆い生き物に自分の力を向けたことなどないため、どれだけのことをしたら壊れるのかもよくわからなかった。わからないなりに彼女の表情を見て力を加減していると、思いの他強がっているのか、ひゅうひゅうと痛々しい喘鳴がもれ始める。しかしやはり、声は出ない。涙の膜がいつになくまあるく溢れ出し、その綺麗な潤みに思わず見入ってしまった。そして気付く。彼女の瞳の中の俺は、口角を上げ楽しそうに笑っていた。好意を示すため浮かべるそれではもちろんなく、純粋な、凶悪な愉悦を含む笑みだ。びくりと、今度は俺の腕が強張った。とっさに手のひらを開き、自分の方へ引き寄せる。
「……しっかり、食え。お前に出してる食事だってタダじゃない」
それだけ言って、部屋を出た。
どこかへ行きたい。どこかへ行きたい。でも一体、どこへ行けるというのだろう。
2015.12.10