初めから真っすぐな想いなんて抱いたことはなかった。彼女に対する憐憫と、同情と、飽和した自己嫌悪を都合よく吐きだしたかっただけだ。そこには俺の忘れかけた何かがあった気がした。人を殺し痛めつけて利を得る、そんなことに慣れる前の、青臭い熱のようなものだ。錯覚でも幻想でも身勝手な勘違いでもいい。あのとき彼女との間に生まれたものを、もう一度確かめるまで、生きるも死ぬもできやしない。
*
「あの女、まだ何もか?」
「全然ダメ。とっくに限界超えてるはずなんだけどね」
「……女は捨て身になるのが早えからな」
付き合いの長い陸軍曹長は、そう言って軍帽を傾けた。いつも短く刈りそろえられている頑固そうな後ろ頭からは、わずかに硝煙が香っている。帯布は堅く焦げついていた。彼がこんなものを被る十数年以上も前から、諾々と続いている争いは未だ終結の気配をみせない。俺たちのような若造がこんな地位にたどりつけるのだから、人材の困窮は著しいようだ。士官学校にいた頃は想定もできなかったようなイレギュラーが次々発生する戦争末期、自分の精神構造がまともさを保っているのかもわからないまま、ただただ軍部の体裁を守りつづけている。
「本当だよ。だから嫌なんだ、女を尋問するのは」
海の前線から、陸の地方支局へと飛ばされて三年が経つ。陸軍憲兵少佐という役職はとても気持ちのいい仕事とは言えず、精神を病みどこかへ消える者も多かった。結果回り回った後釜が俺というわけだが、戦場で人を撃つこととは違う薄暗い残虐さがそこにはあり、けれど佐官という立場上弱みを見せることなどできなかった。軍の規律というのは大抵が内へ向けられたものだ。指揮官が惑えば下への示しがつかない。俺は今日も迷いの一欠片だってない顔でこうして執務室の絨毯を踏みしめている。信念くらいは俺にだってある。むしろ皆、信念のみが最後の砦なのだ。
「何ミリつかった?」
「5、です」
「5か」
「……やり方変えますか?」
「自白剤で言わないような奴は殴ったって言わないよ」
椅子に足を縛りつけられぐったりと机に伏している女は、今にも途切れそうな呼吸をなんとか細く繋いでいる。長い髪が汗にまみれ、頬に貼りついているため表情は見えない。けれど男と比べ格段に細く小さなこの体が、すでに限界を迎えていることは誰の目にも明らかだった。
「本当に、何も知らないんじゃ……」
「何も知らない奴があんな周到な計画に参加はできないよ。指示されただけだとしても、指示した人間のことはある程度知ってるはずだ」
「……そうですね」
「金田一、ここで躊躇うことは自分の家族を見捨てることと同義と思えよ。見知らぬ女に同情する前に、大事な人間のことを考えろ」
「っ……はい」
正論でもなんでもないことをさも偉そうに言った俺は、心拍数を整えながら彼女の姿を見下ろした。戦場で自分のコンディションをベストに保つため要した訓練が、今では佐官の威厳を失わないよう、心を殺す手段として用いられている。いつの間にか、焦燥感が込み上げても汗一つかかない体になっていた。自分の瞳孔が開いているのがわかる。こんな時には麻薬のように麻痺物質が分泌され、自分の全ての行動に肯定的になり、万能感さえ覚えるのだ。
「身体チェックはちゃんとしたのか?」
「はい。縛る前に」
「服着てちゃわからないよ。女はモノを隠す場所が多い」
薄いシャツの首もとを引っ張り上げながら、顔を覗き込む。朦朧とした視線が俺に向き、背筋が熱くなった。どうしようもなく嗜虐的な気分になっているのだと思う。そうでもならなきゃこんなことはやっていられない。こうして人格は壊れていくのだろうか。
「脱がせ」
びくりと反応した金田一が、青年軍人の手本のような溌剌とした返事をして、シャツのボタンに手をかける。威勢がいいわりに震えている指先をなんだか羨ましく思った。学徒の頃から面倒をみている後輩だ。いささか打たれ弱い気はあるが、実践技術は同世代の中でもなかなかのもので、移属の際に引き抜いてきたのだ。ここを落としにかかられた時、慣れた部下を一人はそばに置いておきたい。腕を押さえながら薄い布をはぎとった彼は、瞠目、硬直しながら俺に目配せをした。泣きそうな顔をしている。
「少佐……」
「ああ」
あらわになった彼女の背中に、縦横無尽に走っているのは赤黒い傷跡だった。事故でついたものでないことは軍人ならばすぐにわかる。誰かが故意に、執拗につけたものだ。傷に走りがないから固定された状態で受けたことが予測される。つまりは拷問だ。
「なるほど、通りで打たれ強いわけだ」
「少佐、失礼します」
小さくそう言った金田一が屑箱へ胃液を吐く音が聞こえた。彼にはたしか、彼女と同じほどの姉がいる。担当にするべきではなかったかもしれない。しかしいったいどこの誰が、こんな任務に向いているというのか。無力な女の心身を痛めつけてまで守る物を、俺はいくつ持っているだろう。人なんてたくさん殺してきた。拷問だって慣れたものだ。なのに今日はどうしてか、軍服の背をつたう冷たい汗を止めることができない。
*
「脅されてやったのかもね。彼女からしたら全てが敵だ」
「……だったらなんで吐かねえんだよ。義理立てする理由なんてないだろ」
「さあ。人質でもとられてるか、もう壊れちゃってるか、わからないけど」
安酒のタンブラーを傾けながらそう言うと、岩泉曹長は眉毛をとがらせてフン、と息を吐いた。未だ現場で働く彼は、指揮官のくせに無駄に機動力の高い乱暴者だ。型破りな戦法だけれど、彼の部隊は一定の戦果をあげるため上も口を出さなくなっている。学徒時代はよく彼と組み手をしたものだけれど、今ではきっと適わないのだろう。俺の心身はここへ来てからというもの着々と弱体化の一途をたどっている。前任の彼らのように自ら消息をたつ日も近いのかもしれない。
「意識あんのか?」
「今は捕虜室で寝てる」
「そうか」
「俺としては、ずっと寝ててほしいよ」
思いのほか力のない声が出てしまい、情けなくなって酒をあおった。曹長の視線がじっとこちらに向けられているのがわかる。
「お前、けっきょく脳筋ゴリラなんだからおとなしく戦場で暴れてりゃよかったものを」
「しょうがないじゃん上からのお達しだったんだから。ていうかおとなしく暴れるってなにさ」
あまりの言い草に反論したくなるけれど、彼の言うことは一理ある。戦場で目の当たりにする生き死にはそりゃしんどいものだったし、立場が上がれば上がるほど背負うものは多かったけれど、それでも同じ土の上で命を張っているという免罪符は救いになった。しかし俺が今いるのは柔らかな絨毯で、尋問室のリノリウムで、捕虜室のコンクリートだ。相手の自由を奪い注射器と薬品を使うような仕事場で、清らかな信念を持ちつづけることは難しい。
「あの子の名前も知れないまま、このまま壊しちゃうんだろうね」
「……おい、ちょっと飲み過ぎだぞ」
「うん。わかってる」
しかし俺が人間の顔をできるのは彼の前くらいなのだ。明日からまた前線へ戻る同期に余計な心配はかけたくないが、どこかでバランスをとらないと精神が分離してしまいそうだった。仕事を嫌悪する自分と、楽しみすら見いだしそうになっている自分。防衛本能が暴走しているのがわかる。
「ちょっと休め。真っ向からしかける力がねえから、女なんて差し向けたんだろ。今すぐどうこうはなんねえよ」
「そうだね」
だからといって彼女を逃がすわけにはいかない。今後何が起ころうと彼女の待遇がこれ以上良くなることはないし、良くて飼い殺し、悪くて処刑、最悪の場合じわじわとなぶり殺さなきゃいけないだろう。女姉弟がいるのは俺も同じだ。胃の奥の物が熱く煮えるようで、本当に飲みすぎていると思った。
2015/12/10