wakaba



ひとつぶのすいてき



 名前の細い腕が、彼の体をおさえていられる理由なんて一つしかない。
 本当に殴りたければもうとっくに二発目をおみまいしているはずだ。岩ちゃんは俺のスウェットの肩口を掴んだまま、名前の方をゆっくりと振り返る。

「ちがうの一くん! 私が、あの、アレしたの!」
「はあ?」
「だから、大丈夫だから!」
「泣いてんじゃねえか!」

 顔を真っ赤にしている名前が何にどれだけの羞恥と動揺を感じているかは俺にもわからなかった。ただ一つ、自分が原因で二人の幼馴染みが病院沙汰を起こすのを良しとしていないことは確かだ。俺はもう一発くらい殴られる覚悟でいたけれど、同じ理由で思いとどまっている岩ちゃんにこれ以上汚れ役はさせられないと思い、立ち上がった。殴られた頬よりも、ぶつけた頭が痛くてしょうがない。よろめきながら下駄箱の上に手をついたところで、外から聞き慣れたエンジン音が聞こえてきて冷や汗が出た。もうそんな時間かと、高揚しきっていた心が我に返る。何はともあれ、ありのままを知られるわけにはいかない。

「……お前は帰ってろ」

 これまた同じことを思ったのか、先に岩ちゃんがそう言った。

「でも、」
「名前、ごめん。帰ってて」

 玄関を開け、言葉を詰まらせている名前を外へ促す。ことなかれ主義をとりたいわけではないけれど、三人の未来のためにはそれが最善の気がした。俺からは言い出しづらかったので、岩ちゃんのとっさの対応に感謝した。一度頷いた名前がぱたぱたとサンダルを鳴らし去ったあと、すぐに車庫から顔を出した母親が俺たちを見て首をかしげる。

「徹……あら一くんも。玄関でなにやって……ってあなた、口どうしたの!?」
「おばさんごめん。俺が殴った」

 息子からの見苦しい言い訳を聞く間もなく、同級生からの自己申告をうけた母親は、交互に俺たちの顔を見定めてから「なにがあったの」と静かに聞いた。苦しいとしても「ぶつけた」とか「転んだ」とか言い張ろうと思っていた俺はびっくりして岩ちゃんを見る。

「クラスの奴のことで、及川と揉めた」
「……徹、そうなのね?」
「……うん。痛かったけど、岩ちゃん加減したみたいだから歯もとれてない」

 そう言いながらイーと口の中を見せる。なんだか小学生の頃に戻ったようで、母親の呆れたような心配げなまなざしが恥ずかしかった。昔から負けず嫌いの俺たちがいがみあうことはたまにあったし、殴り合いの喧嘩だってはじめてじゃない。しかし母親よりずっと体が大きくなった後でこんな現場を見られるとは思っていなかったので、何を言われるかいやにドキドキした。「名前ちゃんと仲良くしなさい」と、そういえば昔からよく言われていたことを思い出しますます身の置き場がなくなる。考えてみれば、岩ちゃんよりも名前との方が喧嘩は多かった。そして俺と名前の喧嘩に岩ちゃんが口を挟むことはまずなかったのだ。今日、この日が来るまでは。

「喧嘩するなとは言わないけど……」

 冷蔵庫から保冷パックを持って戻ってきた母親が、厚手のガーゼにそれらを包みながら溜息をつく。保冷パックは二つあった。

「あなたたち、もう昔とは体が違うんだから、お互い怪我させることに関してはもっと慎重になりなさい」

 そう言って俺の頬にぐいとパックを押し付けてから、岩ちゃんにむかって手のひらを差し出す。素直に手を出した岩ちゃんの拳は赤く滲んでいた。「ウス」と小さくお辞儀をする彼もまた、子どものような顔をしている。

「徹、返事は!」
「ハ、ハイ!」

 母親にとって、俺たちはまだまだガキのままのようだ。ガキのくせに、やることだけをやろうとして名前を泣かせた自分とこれからどう向き合えばいいのか。後頭部のたんこぶをさすりながら考える。

「おばさん、もう一つ持ってきてやって」

 岩ちゃんの声が冷えたほっぺたにキンと響いた。





 そわそわドキドキ悶々としながら自室の中をうろついて、「大丈夫?」と送ったLINEのトーク画面と、徹の家の方角にある窓を何度も見返した。さっきまで徹の手が私に触れていたなんて嘘みたいなのに、思い出そうとすれば頭の中がぐずぐずに溶けて指の先から泡になってしまいそうだ。たまらず口の中で「ぐうぅ」と叫びをかみ殺す。わけのわからないうちに私たちはずいぶん触れ合っていて、徹の息づかいがたまらなく怖く、変わっていく自分の心身がもっと怖かった。けれど抱きあうことで彼が私のものになるのなら、例えずるいやり方でも最後までしてしまえと思っていたのは事実だ。それによって徹が負い目をおい、後悔をするとわかっていても彼に縋ることをやめられなかった。案の定、徹は物理的な意味でも傷をおい、さらには汚れ役を一くんにおわせてしまった。一くんに謝らなければいけない。そして、お礼を言わなければ。私たちはもう少しで、お互いをつかった無意味な自傷行為にふけるところだったのだ。そんな傷跡が一度ついてしまったら、おそらく治りはとても遅い。

『大丈夫。明日、学校で話そう。』

 白いふき出しが一つ増えて、トーク画面が少し進む。ほっとしたのもつかの間、さっきよりもそわそわとした気持ちが襲ってきて足腰から力が抜けた。今お風呂に入ったら沈んでしまいそうだ。温まるのは明日の朝にしよう。着替える気力もなかった私はへなへなとベッドに潜り込んで、目を閉じた。徹の怪我は大丈夫なのだろうか。一くんは責任をおわされないだろうか。おばさんはきっと学校にまでは連絡しないと思うけれど、プライベートでの喧嘩だって限度を超えれば部活に響きかねない。どうかいろいろなことがこれ以上悪くなりませんように。だってきっと誰も悪くないんだ。誰も悪くなんかない。そう何度かとなえているうちに、意識は眠りの底へと沈んでいく。





 決めたとおり朝風呂に浸かり、代謝良好な体で通学バスに揺られた。朝練後のバレー部とすれ違わないようぎりぎりの時間に校門をくぐり、ホームルーム続きの総合学習の時間を終え、お昼まで移動教室がないことに安心しながら息を吐く。二つ向こうの教室で同じように悶々としているだろう徹になにか連絡をしようかと思ったけれど、今さら文字で伝えられることなんて何もないと思い机に伏せた。心配した委員長がえりあしの毛をつんつんと引っぱる。

「お腹痛いの?」
「ううん。今日、たぶんお昼休み、徹と決闘するから」
「……もう少し色っぽい言い方できないの?」

 色っぽい、という言葉に昨日の出来事を連想してしまい、自分でもわかるくらい耳たぶが熱くなった。「ぐう」と堪えきれずうめき声がもれる。何かあったことを察したのか、彼女は少しの沈黙ののち「全部おわったら話してよね」と言った。

「ありがとう委員長……」
「負けるんじゃないよ!」

 決闘、と言ったのは私だけれど、彼女の気合いの入った激励に思わず頬がゆるむ。おかげで少し力が抜けて、午前中の授業は集中することができた。次のチャイムが鳴ったら駆け足で三組の教室に向かおう、と思った四限の終わり、携帯が小さく震え『おひる第二音楽室きて』というメッセージが表示された。心臓がぎゅっと掴まれたように脈打って、目の前のページをぐしゃぐしゃにしたい衝動に駆られる。前の席からプリントを回してくれた長田くんが「顔あかっ!」と声を上げたおかげでクラス中から注目されてしまい散々だ。私は心配する先生に「大丈夫です、朝お風呂に浸かりすぎただけです」と言い訳をして失笑をかうはめになった。コントのようなタイミングでチャイムが鳴り、逃げるように教室を飛び出す。階段を一つ上り、つきあたりのドアを開けるがまだ徹の姿はなく、一度二度、深呼吸をしてオルガンに寄りかかった。めったに使われることのない第二音楽室には時計がなく、自分の心臓の音くらいしかたよりにするものがない。しんとした空間がいたたまれなくて、防音壁の穴をぶつぶつと数えた。

 うまく話せるだろうか。どういう話になるのだろう。彼がもう言うことを決めているとしたら、それはいよいよ二つに一つしかないと思った。共存か、別離かだ。同じ学校に通っているのに大げさだと言われるかもしれないけれど、理由もなく一緒にいることが許された幼馴染みという関係を改めて問い直すとき、その先にあるのは意識的などちらかしかないのだ。心音はどんどん速くなって、指先がわなわなとふるえた。逃げ出したい、と思った瞬間扉が開き、頬に湿布を貼りつけた徹がひょこりと顔を出した。

「わっ早いね」
「……はしってきた」

 震えをごまかすように胸の前で手をぎゅっとにぎる。彼はそんな私を見て一瞬気まずそうに目を逸らしたけれど、すぐにまた見つめ返し数歩、あと一歩で触れられるという距離まで歩み寄ってきた。

「……昨日も、そうしてた」
「え?」
「手、ギュッて。……こわかったね」

 彼の声は驚くほど優しかった。透明な瞳がすんなりと私をうつしこんでいる。形のいい眉は上がるでも下がるでもなく、瞼と平行にまっすぐ佇んでいた。私は小さな頃から当たり前にそこにあった彼の顔の、本当の美しさをたった今知ったように思った。

「ほっぺた」
「ん」
「痛い? 歯……とか、口の中」
「切った。でも歯は無事。本気で殴られてたら、歯どころか首が飛んでたかも」

 そんなバカな、と思ったけれど、昨日久しぶりに触れた一くんの肩や腕は思っていたよりもずっと厚く太かったため、つい神妙に頷いてしまった。徹がふっと笑い声をもらす。

「一くんに、謝らなきゃいけない」
「名前が謝ることないでしょ」
「だって、私が誘ったし。していいって言った。徹は最初から帰れって言ってたのに」
「……」
「既成、事実でもいいと思ったの。とられたくないって思った。三組の子、かわいかったし、徹、私にうんざりしてたみたいだったから」
「……既成事実」
「そう、徹が思ってるより、わたし悪いからね」
「悪いの?」
「悪いよ」

 目に力を入れて言うと、徹はまたぶはっとふきだした。真剣に話しているのに失礼な奴だ。

「ごめん、ごめんごめん。だってそんな善良な顔で言われても……でも、そっか。既成事実。名前、そんな言葉知ってるんだね」
「ばかにしないでよ」
「してないよ。俺にとって名前はナマグサイことなんてなんにも知らない、おぼこちゃんだからさ」
「……いつまでもそんなんじゃいられないって、徹が言ったんでしょ」
「そうだけど」

 オルガンの蓋に手をついて、彼は湿布の上を数度さすった。考えるように少し黙り、目を伏せたまま続ける。

「名前にもう触らない……近づかないほうがいいんじゃないかとも考えた」

 別離の可能性を彼がちらつかせたから、私の心臓はまたかわいそうなくらい跳ねて全身に無駄ないきおいで血を送る。とっさに否定したかったけれど、彼の言葉がそれで終わりではないことはわかったためぐっと堪えた。

「でも、それはたぶん違う。俺がどうして名前を傷付けたのか、俺らがどうしてこんなにうまくいかないのか」
「……うん」
「ちゃんと考えたら、答え一つしか出なかった」

 さっきよりも強く指と指を握りあわせていた。祈っているように見えるかもしれない。実際に、祈っているのかもしれない。そういえば、私は彼の試合を観るときにいつもこの格好をしている。

「好きだよ名前」

 徹の声は、まるで日常会話のように自然な響きをもっていた。

「バレーもなんも犠牲にせずに、名前のこと幸せにしてみせるから、だから……俺のことも幸せにしてよ」

 彼に負担をかけたくないと、ずっと思っていた。けれど彼が出した答えはそんな一方的なものじゃなかった。なにかを犠牲にして恋をすることが躊躇われるなら、互いの愛情を糧にして恋をすればいい。そんなのは、まったく夢のような関係じゃないか。どうしていつもこの人は取り返しがつかないほどぐちゃぐちゃに迷った後、それでも顔を上げて綺麗なものを思い描けるのだろう。きっと、夢をみる才能があるにちがいない。

「徹、そんなに気負わなくていいよ。私徹が幸せならそれで幸せだから」
「俺だって、名前が幸せだと幸せだよ」
「じゃあ、ばっちりじゃん」

 意味もなく昔から一緒にいた。これからは一緒にいることが意味になるらしい。むずかしいと思っていたことは、こんなにも簡単に胸に落ちてきて根をはった。なんのことはない、私たちは愛しあう永久機関なのだ。雫がひとつぶ地面におちる。ゆびのさきで芽ぶいたばかりの若葉がふるえている。


2015.10,20
ゆびさきのわかば END


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