きょうのでぐち
「……バイト帰り?」
全国チェーンのコーヒー屋さんで働きはじめて三ヶ月。接客業にもだいぶ慣れてきたけれど、退勤後の独特の疲労感はあとを引く。最寄りの交差点で同僚と別れ住宅街に踏み入ると、エナメルバッグをリュックのように背負い込んだ徹とはち合わせになった。
「うん。徹は部活? ずいぶん遅いね」
「残ってやってたからね」
そう言いながらうーんと伸びをした徹は、腕や指の間接を曲げたり伸ばしたりしながら「お腹減った」とこぼした。
「私も」
「まかないとか出ないの?」
「コーヒー屋だよ?」
「そっか。てか一緒に帰ってたの誰?」
「シフト被ってる先輩。遅番のときは送ってくれるの」
「ふーん」
彼はジャージのポケットに手を突っ込みながら、少し猫背気味に歩いている。テンポ良く繰り出される質問はぱっと聞いた限りそう機嫌が悪いようには聞こえないけれど、付き合いの長い私はなんとなく虫の居所が悪いのかな、と思った。そのまま無言でうちの前まで歩き、じゃあね、と別れる。徹は片手を上げて「ん」と短く返事をした。これだけ毎日遅くまで残っていれば、そりゃ疲れるだろう。気分が優れないときだってあるに違いない。私は小さく「がんばれ」と呟いてから玄関を開けた。
学校行事を前にして校内がざわつくのは中学の頃から同じだけれど、高校の文化祭というのはとりわけ皆浮き足立つようだ。予算が増え、自由度も上がり、これから形になる様々な目に見えるもの、そして目に見えないものに対する期待値が高まっていく。それを楽しいと思う人がいて、面倒くさいと思う人もいて、いろいろな人がいろいろなことを思い、校内はしばし雑然とする。当の私は、楽しみだけどちょっと面倒、というどっちつかずの心持ちだった。
「俺ら大会近いから、あんま協力できないし」
彼らが率先して参加できない、というのもその理由の一つかもしれない。昔から強豪校と言われる部活のレギュラーメンバーとして活躍していた幼馴染みたちは、どうしてもそちらが優先になるため、学校行事は二の次になってしまう。一くんは『純喫茶・ジュテ〜ム』と大きく書かれた黒板を見ながら牛乳パックにストローを突き刺した。
「これ、なに?」
「なんか知らんがコスプレ喫茶みたいなもんだってよ」
「コスプレかあ」
「お前んとこは?」
「うちはね、カジノ。長田くんがべガス王やるんだって」
「なんそれ」
「わからない」
笑いながら答えると、一くんも「しょうもねえな」と言って口元をゆるめた。わからないなりに盛り上がって、さっそく係を分担することになったのだけれど、積極的に手を上げ損ねた私は『備品調達係』というわりかし面倒くさいポジションとなってしまった。これから文化祭当日まで、こうして校内を右往左往しなければいけないと思うといささか気が重い。
「名前んとこなに〜?」
「うちはカジノ。徹は?」
「ドラキュラ屋敷だって。あやうく伯爵やらされるとこだった」
「やっとけやっとけ」
教室から顔をだした徹が呑気に溜息をつく。どこもノリとテンションで決めたようなデタラメな出し物だったけれど、それらがこの廊下に並ぶと思うと見物ではある。さっそくジャージに着替えタオルを首に巻いている徹は、片手間なりに文化祭を楽しむ気満々だった。
「大丈夫なの? 部活」
「大丈夫大丈夫。俺スーパーヘルプ係だから」
「なにそれ」
「手が足りないとこ行ってサポートするの」
「要は雑用だろ」
「甘いな岩ちゃん、俺のマルチプレイぶりを見てなさい」と胸を張った徹から、先日のピリっとした様子は見てとれなかった。ほっとして用具箱を抱え直す。店の細かいコンセプトを練っているらしい衣装係や内装係の様子を見るため、私も教室へと足を向けた。
「……これ、本当に着るの?」
それから一週間後。完成した試作第一号の衣装を掲げながら、私は思わずそう尋ねる。カジノというくらいだから男も女もかっこいいパンツルックなのだろうと勝手に思っていたけれど、衣装係の女子の提案した制服はディーラーというよりコンパニオンと呼ぶ方がしっくりくるようなお色気たっぷりのものだった。ぴったりとしたレザー生地のタイトスカートと、量販店のタンクトップにジレを縫い合わせただけの薄っぺらいトップス。頭にはウサギの耳を模したリボンカチューシャといったショービズ具合だ。こんな衣装、運営委員の許可が下りるのだろうか。
「えっ超かわいい!」
「けど二の腕自身ない〜!」
「強制じゃなくしよ、コンパニオンはやりたい人だけ」
やっぱりコンパニオンなんだな、と思いながら委員長の方を見ると、彼女は意外にも乗り気なようで「下にタイツはいてもいいの?」と聞いていた。タイツをはいていいならだいぶ安心感があるし、私だって可愛い格好をしたくないわけではない。どんなもんかな、とスカートを腰に当ててみる。普段の制服とあまり丈が変わらないことを確かめていると、衣装係がとんでもないことを言った。
「ちょっと名前、着てみなよ」
「えっ」
「ちょうど背平均くらいじゃない?」
「マナミだって!」
「あたしは無理、来週までに二の腕落とすから」
「いいねいいね、着たとこ見てみたいね」という雰囲気があっという間に広がって、皆が私に期待のまなざしを向ける。女子だけとはいえ、一人でこんな浮かれた格好をするのは恥ずかしい。しかし頼まれた備品を多目的室から持ってくる以外なにも仕事をしていない身として、遅くまで案を出したり、衣装を作ったりしている彼女たちに少しでも貢献できれば、という思いはあった。
「……本番着るかは、わかんないよ?」
「いいよ、試しに着てみて、無理だったらやめればいいじゃん」
お祭りの準備期間というのは、人の正気を奪うものだとつくづく思う。校内を満たす高揚感に当てられて、普段なら絶対に断るようなことについ頷いてしまった。「じゃあ……」とそそくさ隣の教室に引っ込んで、衣装に袖を通してみる。上は思ったよりも私服に近いものだった。ちょっと変わったノースリーブと思えばそんなに抵抗はない。しかしスカートの方は、服の上からあててみた時と比べて明らかに短く感じる。レザーの素材とタイトなカットのせいだろう。丈は制服とさほど変わらないはずなのに、少し動くだけで生地が太ももに貼り付いて捲れてしまいそうだ。これはまずい、と思って衣装係に体操着の短パンを持ってきてもらう。
「ジャーン!」
私の背を押して教室に押し込んだ衣装係のマナミは、自作の衣装が上出来なことに満足げだ。すうすうとする脚もとに縮こまりながら、クラスメイトの反応をうかがう。
「かわいいー!!」
「カチューシャもつけてつけて!」
「これ、見た感じはいいけど、動き回るならもうちょっと長くしないとダメかも……」
「そうだね〜タイツとか短パン履いてれば見えはしないけど、ちょっと許可降りないかもね」
盛り上がる女子たちの真ん中でいろんな場所の布を引っぱられて、マネキンのようにされるがままだ。恥ずかしいから早く脱ぎたい、と思っているうちに、一番恐れていたことが起きてしまう。
「どう!? べガス王っぽい!?」
別室で内装の大道具を仕込んでいた男子たちが、とんでもない格好をした長田くんを引き連れ戻ってきたのだ。ド派手な皮ジャケットの首元に成人式で見るようなふわふわの襟巻きをあしらった長田くんは、満面の笑みでそう聞いた。しかし彼らの注目は、一瞬にしてべガス王長田から私へと引き寄せられる。彼らのうちの誰かが「おお……」と声を漏らしたのが聞こえた。
「いい! すげーいい!」
「でしょ? あたしが作ったんだよ」
やんややんやの盛り上がりに、ますます着替えるタイミングは遠のいていく。裾が気になる私は、結局午後の準備時間が終わるまで動けずに、じっと椅子に座っているはめになった。終礼のチャイムが鳴って、クラスの中心メンバー以外はどんどん帰っていってしまう。
「じゃ、私たち実行委員に体育館のカーテン借りられるか聞いてくるね」
「たぶんドラキュラの三組と取り合いだね〜」
「名前、その間に着替えときな」
連れ立って出ていった女子たちに「わかった」と返事をし、大道具造りに戻る男子たちを見送る。私と同じように椅子に座ったままそれらを眺めていた長田くんは、ニッと笑いながら「ベガス王、いいだろ?」と言った。そもそもべガス王がなんなのかわからない私は、首を捻りながら「もう少しネックレスを短くしてみたら?」と自分なりの意見を言ってみる。
「おお、たしかに短い方がチンピラっぽい! 名字センスあるな!」
「長田くんのラスベガスのイメージってどんな……? ていうかそれ、どうしたの?」
「姉ちゃんの成人式の襟巻き借りた。勝手に」
「怒られない?」
「見つかったら殺される」
相変わらずその場のテンションで生きているお祭り男長田くんに、思わずふき出してしまう。我に返るとますます互いの非日常的な格好がおかしく思えた。指をさし笑い合っていると、突如後ろのドアが開いて三組の男の子たちが入ってくる。名前はわからないけれど、柔らかな髪色をした男の子はたしかバレー部だったはずだ。
「長田あ、お前らのクラス体育館のカーテン使ってない?」
「おー、いま女子がとりに行ってるみたいだけど」
三組はドラキュラ、というくらいだから部屋を暗くするんだろうな、とさっきマナミが言っていたことを思い出す。そういえば徹は伯爵をやらされそうだと言っていた。と、そこまで考えたところで、なんだか嫌な予感がして背筋が伸びる。案の定、数人の男子の後ろから徹がひょこりと顔をだし教室の中を覗いてきた。彼の目が私に止まり、まん丸く見開かれる。
「名字さんそれかわいーね。バニーガール?」
「おう、これはな、べガス王の妻だ」
「ち、ちがう、ただのコンパニオンだよ」
ご機嫌らしい長田くんは、そう言って私の肩を抱く。徹の手が反射的にピクリと動いたのが見えて、彼が人知れず臨戦態勢に入っているのを感じとってしまった。あまりの恥ずかしさに、いつのまにか慣れてしまっていた真っ黒いリボンカチューシャを頭から引っこ抜く。うっすらと瞼を下げている徹に言い知れぬ恐ろしさを感じながら、言いわけをするように「当日は着ないと思うし!」と言った。
「なんで? かわいいのに、な? 及川」
「ソーダネ、カワイイねウサギさんみたいで」
なんだその感想は。全く心がこもっていないじゃないか。耐えられなくなった私はなるべくスカートが乱れないよう小股でドアまで走っていって、「もう着替えるから」とそそくさ教室を出た。すれ違いざまに刺さる徹の視線が痛い。べつにやましいことはしていないけれど、よりによって教室内の人数が減ったときに見られてしまうなんて運が悪いと思った。私が放課後、好きこのんで男子の前でこんな格好をしているのだと思われていたらどうしよう。やきもきしながら制服に着替えて、戻ってきたマナミに衣装を返し、早々にスクールバッグを抱えた。通りかがりざま三組の教室を覗いてみたけれど、彼の姿は見えない。
「誰に用?」
「あの、徹は」
「もう部活行ったよ」
どうやら一足遅かったらしい。けれどまだ部室には着いていないだろうと思い、私は駆け足で第三体育館の方へ向かった。会ったところでどんな言いわけをしたらいいか、むしろする必要があるのかわからなかったけれど、このままじゃ互いの精神衛生に良くない。
「徹!」
屋外の渡り廊下でようやく見つけた背中は呼びかけても反応がなく、めげずに二度三度と声をかける。私がブレザーの裾をひっぱったところでようやく、徹は億劫そうに後ろを向いた。
「どしたの」
「あ、あのね……あれ、着ないから」
「あれ?」
「さっきの。当日は、人いっぱいくるし」
たどたどしく言うと、彼は無言でしばらく私を見下ろした後、大きな溜息をついた。
「人いっぱいくるとか、そういうことじゃないでしょ」
あからさまに苛々している徹は、話にならないというようにまたしばらくの間沈黙し、それでも私が真意を探しあぐねているのを見ると、静かな声で続けた。
「あいつ、狙ってるよ。お前のこと」
「……あいつ? ……長田くん?」
状況から考えて彼しかいないけれど、それはきっと誤解だ。私はクラスでの彼の様子を思い出し、いかに彼が誰にでも人懐っこく振る舞うか説明しようとしたけれど、なんだか伝えられる気がしなくて「気にしすぎだよ」とだけ言う。
「気にしすぎ……? なに言ってんだか」
「本当に、そんなんじゃないんだもん」
「それは名前の能天気な予想でしょ」
「だったら徹のだって勝手な勘ぐりじゃん」
「……名前はさ、高校入って周りがどう変わったか……いや、お前自身がどう変わったのか、わかってないよ」
「……」
「だいたいバイト先の先輩だって、一緒に帰ってるとかどうなの? そうやって無防備に男誘いこんで俺にプレッシャーかけといて、つっこまれれば無自覚です、天然です、で済むんだからお前は気楽だよね」
「……そんな」
「いつまで経っても恋愛に疎い名前ちゃん、じゃいられないんだからね」
まるで蔑むような声色だった。一方的に責めるような語調に最初は悲しくなったけれど、だんだんと怒りがわいてくる。
「……なんでそんな言い方するの。感じ悪いよ」
「……」
「徹だって、女の子からのプレゼントとか手紙とか貰ったりするじゃん。なんで私だけ、そんなふうに言われなきゃいけないの」
「……それは、また違うでしょ」
「違わないよ。勝手なことばっか言わないでよ。付き合ってもないのに!」
つい、売り言葉に買い言葉で声を荒げてしまった。けれど、最後の一言が言ってはいけない類のものだったということには、すぐに気付いた。徹はまた少し黙ってから、低かった声をワントーン上げて言う。
「そうだね。付き合ってないから、俺がお前に言えることなんてなにもないね。待っててくれだなんて、あんな約束した方がおかしかった」
続く言葉を制したくて、足下に向けていた視線をとっさに上げた。しかし彼は私の目をじっと見て、無感情に口を動かした。
「いいよ、無かったことにして」
その漠然とした言葉がどういう意味をもつのか、私にはわかってしまう。二人の間に今まで存在していた複雑な感情のすべてを、破棄しようというのだろう。それが、私や自分自身に対して苛立ちを覚えている今の徹の出した答えなら、頷くほかにない。今度こそ背を向けて歩いていく徹の後ろ姿を見送って、暗い気持ちで踵を返した。廊下の端っこに一くんが立っているのが見え、なんだかたまらなく恥ずかしくなる。これから部活に向かう一くんに泣きそうな顔を見せるのが嫌で、情けなく笑ってみる。
「いいのかよ」
「……うまく、いかないや」
お互いのことが好きでも、うまくいかないことなんていくらでもある。大事すぎたらいけないのかもしれない。ちょっとくらい軽い気持ちの方が、恋愛はうまくいくのかもしれない。そんなわけないのに、そう思って蓋をするくらいしか今の私にできることはなかった。
2015.10.12