『名字名前には番犬がついている。目つきの悪い秋田犬と、獰猛なゴールデンレトリバーだ』
そんなわけのわからない噂が校内にはびこっているらしい。
「番犬……」
「岩泉くんと及川くんのことでしょ」
「……獰猛なゴールデンレトリバーなんている?」
困惑を隠せない私に、委員長は「見たことないよね」と言って笑う。徹のふわふわとなびく色素の薄い髪の毛を思い出し、私もふき出してしまった。ああ見えて、さわると意外と硬いのだ。しかし噂の出所は一体どこなのだろう。だいたい番犬もなにも、私のなにを番するというのか。盗られるものなんてそうそうない。
そんな煮え切らない気持ちを抱えたまま、ブラウスのボタンを外し体操着を着込んだ。窓の外を見ながらジャージのジッパーを上げる。スポーツの秋。空はよく晴れている。
「名字、名字! パス!」
「あ、……わっわわ、ごめん!」
「オッケー!……っしゃあ〜!!」
二学期の中だるみを打破しようと設けられた、男女の混合サッカーは息抜きのお遊びのようなもので、ひんやりとした空気のなか皆気持ちのいい汗をかいていた。クラスの中心人物であるサッカー部の長田くんにパスを求められ、なんとかボールを蹴り上げたけれど軌道はおぼつかなく、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。そんな悪送球を見事に膝でワントラップした長田くんは、そのままダイレクトで左足を振り抜きゴールネットの端に回転シュートを突き刺した。浮いた両足が軽やかにグラウンドへ着地し、同時にボールがキーパーの背後に転がり落ちる。そのフォームの美しさに、私を初め、敵チームの生徒までもが思わず見とれてしまう。さすがは一年生にしてサッカー部でレギュラーを張るらしい、期待のエースストライカーなだけあると思った。
試合途中だというのにウイニングランをきめている長田くんは、チームメイトにぱしぱしと背中や頭を叩かれながらゴール前まで戻ってきて、もう一度私に「ナイスパス!」と言った。テレビの中の代表選手のように、首のあたりにぎゅっと飛びついてきた長田くんにびっくりしながらも「ナイスシュート」と言い返す。彼の明るすぎるコミュニケーションは、クラスのどんなに大人しい女の子や真面目な男の子に向けても同じように振りまかれる。最初は引いていた人もいたようだったけれど、二学期に入る頃には皆なんだかんだほがらかに受け入れるようになっていた。裏表の無い彼の人徳なのだと思う。
「よく決められたね、私のへろへろパスだったのに」
「あれくらい合わせらんなきゃ青城のマラドーナの名がすたるぜ!」
「そんなふうに呼ばれてるんだ!?」
「いや、今俺がつけた!」
あっけらかんと笑う長田くんは一クラスメイトの私から見てもきらきらとしていて眩しい。きっとこんな風にして恋に落ちる子はたくさんいるのだと思う。ちょうどよく鳴った終礼のチャイムに、再度私の頭をわしゃわしゃとかき回して、彼は「次も頼むぜイニエスタ!」と校舎へ走り去っていく。イニエスタが誰なのかはわからないけれど、なんとなく嬉しくなって私は乱れた頭に触れてみた。切った直後に比べれば少し伸びてきた髪だけれど、これはいわゆる「おかっぱ」というやつなんじゃないかと恥ずかしく思っているところだ。
「長田はバカだから、噂とか気にならないみたいだね」
「え?」
汗の引かない更衣室で、笑いをかみ殺したようにそう言った委員長に「噂って?」と問いかける。彼女はスカートのホックを留めながら「ほらだから、番犬とか」と答えた。
「長田くんじゃなくたってあんな噂、真に受けないでしょ」
「それがそうでもないみたいよ。言いはじめたの三年らしいし」
「三年?」
思わぬ言葉に頭を巡らせるけれど、私に関わりのある上級生なんて体育祭でお世話になった人くらいしか思いつかない。そういえば、少し前に同じカラーの先輩と一緒に帰ったのだった。もしかしてあの時だろうか。だとしても、あの時二人は別になにも言っていないし、していない。確かに一くんは普段から目付きが鋭いし、徹はなんだか微妙な空気を纏っていたけれど、まさかそんなことがあるだろうか。
「まあ、行事にかこつけて一年生漁りする三年とかいるみたいだし、あんたぼっとしてるからちょうどいいんじゃない」
「そう、かなあ。なんか立場ないよ。徹はただでさえモテるんだし……」
私は徹が好きだけれど、幼馴染みという立場を振りかざすような真似はなんだか格好が悪い。贅沢を言っているとは思うけれど、今までそんな話題で注目されたことなんてないためそわそわした。「どちらかと付き合っている」ならまだしも、二人に守ってもらっているなんて、これじゃ姫気取りじゃないか。
「高校生活ってむずかしいね」
「面倒くさいよね」
一緒に笑ってくれる彼女がどれだけ心の支えになっているか、いつかちゃんと言わなければと思う。グレーのブラウスを着て、真っ白いブレザーのボタンをとめた。裾から出ているスカートが最近少し短くなったようだ。徹のそばにいると気付かないけれど、私も背が伸びているのだろうか。
「名前の夢ばっかみる……」
我ながら気持ちの悪いことを言っているなと思いながらため息をつくと、隣に座っていたマッキーがすかさず茶々を入れた。
「エロいやつ?」
「……エロいやつ」
「どんな?」
「言えない」
名前のエロい妄想を共有されるのが嫌で黙っていると、「なんだよ」と言ってマッキーはディスプレイに目を戻した。テーマのよくわからない調べ学習の時間、席を外した教師をいいことにPC室でだらけはじめた俺たちは、おのおの適当な言葉を検索しながら暇をつぶしている。背後からさりげなく俺を見ていたバレー部の湯田っちも、がっかりしたような顔をしてマウスをカチカチと鳴らした。『おっぱい 重さ』そんな検索ワードで何を調べようというんだ湯田っちよ。
「欲求不満でおかしくなるくらいなら、付き合ったらいいんじゃない?」
「……そう、は言うけどさあ!」
「なにがいかんのよ」
「だって幼馴染みだよ!? 家だって近いし、俺どうなるかわかんないよ?」
「それエロい意味?」
「マッキーそればっかじゃん! そうだよエロい意味だよ!」
「お前気持ち悪いな」
知り合ってまだ半年ちょっとだというのにガンガンつっこんでくる花巻貴大は、自分を棚に上げてそう言った。たいがい遠慮がないけれど、それだけ部活で共にしている時間が濃いのだと思う。みんな強豪のハイレベルな練習に必死で食らいついている。もう一度長い溜息をつきながらローラー椅子の背をぐっと反らせると、窓の外で名前のクラスがサッカーをしているのが見えた。いいなあ、羨ましいなあ。こんなところで腐っていないで、俺も体を動かしたい。
「やっぱかわいいよな」
いつの間にか隣に椅子を転がしてきたマッキーが、そう呟く。
「誰が?」
「お前が今見てる子だよ」
「……」
名前がひょっとしたら一般的に見てかわいい顔をしているんじゃないかなんてこと、言われなくても一ヶ月ほど前に気付いたところだ。遅いのかもしれない。けれど俺からしたらよく気付いた、というところだ。べつに独占欲が芽生えたのは顔がかわいいからじゃないし、体が欲しいからでもない。はずだ。男女入り乱れたごちゃごちゃのディフェンスラインを声のデカい男子が上がっていくのが見えて、思わず目が引き寄せられる。彼は大きな声で名前の名前を叫び、彼女の劣悪なパスを流れるようなダイレクトボレーで決めた。あまりに見事だったため俺もマッキーも思わず「おー」と声を上げる。そこまでは良かったのだが、あろうことかそいつはどさくさに紛れて名前の体を後ろから抱き締めたため、握っていた窓枠を壊しそうになった。
「……なにあれ」
「……サッカー部エースの長田くんだろ」
「なんなの? サッカー部のエースならなにしてもいいの?」
「まあ長田くんなら許されるんじゃないか」
何部の何だろうと体操着の女子に後ろから抱きつくなんてやっていいことじゃない。わりかしスキンシップを受け入れられている俺だってさすがにそんなことはできない。
「俺だってまだあんなふうにぎゅってしたことないのに!!サッカー部だからって!」
「お前サッカー部になにか恨みあんのかよ」
他意がなかろうがシュートが決まろうがそんなデリカシーのない行いは嫌な子は嫌だろうし、ノリにまかせて女子に触るなんて言語道断だ。俺は急に風紀委員のような堅い頭になっていくのを感じながら、名前だってきっとびっくりしたに違いない、と思って見下ろした。しかし彼女はおかっぱ頭をわしわしと撫でられて、満更でもなさそうな顔をしていた。
「あー、ぼんやり見送ってるよ名字さん。惚れちゃったかな」
「ヤメテ!ヤメロ!」
「なになにどしたん?」
「おっぱい調べてる場合じゃないよ湯田っち!もうバカ!」
「俺のせい!?」
結局なんの成果も得られないまま調べ学習の時間を終えた俺は、ストレスだけを溜め込んで放課後の部活に向かうのだった。これは本当に考え直さなければいけないかもしれない。慣れない禁欲なんかをして逆に生活に支障をきたすようじゃ意味がない。しかし彼女にあんな風に決意表明した手前、すぐにスタンスを変えるわけにはいかない。それに、付き合ってもきちんと責任を取れないのではないかという不安は本音だった。今の何の誓約もない関係が楽だと思ってしまっている自分もいる。彼女は待っていると言ってくれたけれど、本当だろうか。いくらそのつもりだって、今日みたいに日々いろいろな出来事を通して違う男に惚れないとも限らない。俺はどうするべきなのか。何が最善か。さっぱりわからない。
「岩ちゃん、生きていくって大変だね……」
「あ? 面倒くせー奴だな。知るか」
一方でこちらの幼馴染みは相変わらず手厳しかった。部活ではあんなに頼りになるのに、プライベートでは突き放されて十六年だ。中学の頃に買ったLLのTシャツの丈が最近は余らなくなってきたことを感じながら、成長のない心にうんざりとして、ロッカーを閉じた。
2015.10.9