はんとうめいの
くさり
短くなった彼女の髪もだいぶ見慣れた今日この頃。先へ進むと思っていた俺たちの関係はむしろ昔に戻っていて、気兼ねなく話せるようになったのはいいが些か色気にかけていた。さっきだって、狙っていた菓子パンを彼女が持っていたから「いいなあ」と声をかけると、「徹のお母さんの卵焼きくれるならあげてもいいよ」と笑われたばかりだ。俺たちの間で交わされる会話と言えば、食べ物の話かバレーの話か、もう一人の幼馴染みの話が大半である。小学生のときからちっとも変わらない。
「徹、相変わらず甘いパン好きだね」
「カロリーを求めてるんだよ」
「べたべたなの食べても全然太んないもんね。羨ましい」
「太ってる場合じゃないよ。背が止まらないように食べ続けてんの」
菓子パンのビニールを剥きながら言う俺に、名前は呆れたような羨むような顔をしてから「やっぱ卵焼きも食べな、徹が」と言った。
「いいの?」
「いいよ。その代わり明日ジュースおごってね」
教室に戻っていく彼女の頭は、思えばずいぶん低い位置にあった。俺の背が伸びただけだけれど、体のサイズが変わることと、心の距離が変わることには何か相互作用があるのだろうか。表面上昔と変わらない二人の関係の裏で、彼女が何を考えているかはわからなかった。自分の気持ちさえわからないのだから当たり前だ。
俺は名前の髪に触れたあの日から、ある一つの命題に思いを馳せている。
彼女に対する所有欲ばかりがむくむくと育ってはいるが、俺が彼女と付き合ったとして、果たしてキスやその先ができるのだろうか。できるかできないかで言えば、おそらくできる。しかし、したいかしたくないかで言えば微妙だった。やろうと思えばできるし、他の男にやられるのは嫌だ。けれど長年ともに育った幼馴染みというのはそんな単純なものではない。恥ずかしい姿を見るということは、恥ずかしい姿を見られるということでもある。今まで付き合ってきた女の子にさらしたあんな顔やこんな顔を、名前にも見せるなんて、それはある意味しょうもない小学生時代を知られる以上に恥ずかしいことだ。一度踏み出せば戻れないし、うまくいかないとすれば、それは関係の終わりを意味する。一か八かの賭けのようなものだった。
「及川、そこの資料もって職員室来てくれ」
午後の授業が終わり、部室から回収してきたタオルやTシャツをエナメルバッグに詰め込んでいると、担任にそう声をかけられる。
「あ、俺部活なんでえ」
「バレー部月曜ないだろ」
ハードワーク気味だった中学から一変した、定休日制というプロアスリートのようなスケジュールに未だ体は慣れないけれど、教師たちの方はしっかり把握しているようだ。しぶしぶ返事をして教卓の上を見る。たしかに女子には頼めないような量の本やプリントが鎮座しており、一瞬うんざりしたけれど筋トレになるかなと前向きに考え直す。二、三年生のような厚みのある体を作るには、よく食べてよく動く他ない。
先生は二度に分けた方がいいと言ったけれどあえて一度に抱え上げた俺は、行儀悪く足で扉を開け階段へ向かった。余裕余裕、と思いながら職員室の階へ下りていく。腕の筋肉が張っていくのを感じながら、よしよしいいぞ、この負荷がたまらないんだな、と筋トレオタクのようなことを考えていると聞き慣れた高い声が耳に飛び込んできた。踊り場を曲がりきらず、耳をそばだてる。
「名字さん、一人で帰るの?」
「はい。あの、この前ありがとうございました」
姿を確認しなくてもわかる。これは名前の声だ。
「ああ、遅かったからね〜。楽しかったよね、打ち上げ」
「そうですね」
「LINEに貼った写真みた?」
「みました。保存しました」
相手はきっと、体育祭で同じ色になった先輩か何かだろう。楽しそうに、俺の知らないコミュニティで交流を深める名前の姿を目の当たりにし、俺は自分を悩ませていた命題がどこかへ吹っ飛んでいくのを感じた。リスクが高い?恥ずかしい?何を二の足を踏んでいるんだ。もたもたしているうちに横から掻っ攫われて、人のものになってから後悔したって遅いんだぞ。資料を胸元に引き寄せながら、俺は少しだけ縁から顔を出した。後ろから見たらさぞ怪しいことだろう。
「そういえば髪切ったんだね。かわいいね〜」
「あ、ありがとうございます」
「俺短い方が好きだな。似合ってる似合ってる」
「そ、そうですか、なんか切りすぎちゃって、恥ずかしいです」
「え〜そんなことないよ〜」と白々しく相づちを打つ男の好感度かせぎを真に受け、名前は顔を赤くしている。どうやら髪を褒められるのは本当に嬉しいらしい。俺はなんだかんだで一度もかわいいなんて言っていないことに気付き、コンチクショウと資料を投げ出したい気持ちになった。図録や便覧を奴の後頭部にヒットさせたい気持ちをぐっと堪える。筋肉だって耐えているんだ、本体がキレてどうする。
「岩ちゃん!帰るよ!」
結局うまく乗せられて、下校路を共にすることになったらしい二人を見失わないうちにと、超特急で職員室に入った俺は「部活休みの日くらい落ち着いたらどうだ」と呆れる担任に背を向けてエナメルバックを背負った。
「言われなくても帰るわ」
「急いで!はやく!」
洗濯物を詰め込みすぎたせいでパンパンになったバッグは、背中で大きく揺れてブレザーをしわしわにしていく。校門を出たとたん黙りこくって前の男女の後をつけはじめた俺を見て、岩ちゃんは蔑むような目を向けてきた。
「なんなんだお前ストーカーか?」
なんと言われようと、大事な幼馴染みが上級生の毒牙にかかりそうなこの現場を見過ごすことはできない。
「普通に声かけろよ」
「嫌だよ。必死みたいじゃん」
「……じゃあ携帯で」
「俺名前のLINE知らないし」
「なら送ってやるよ」
「なんで岩ちゃん知ってんの!?」
「むしろなんで知らねえんだよ。嫌われてんのか?」
「嫌われてる」という思ってもみない、しかし考えてみればあながちありえなくもない仮説を立てられ暗い気持ちになった。たしかに出会ってから今までの間、名前に好かれるような言動はとった覚えがない。小学校から中学高校、春夏秋冬と振り返ってみてもそうだ。名前のとった珍しい虫を見せて見せてと引っぱって逃がしてしまったり、手のひらに溜めたスイカの種を名前の背中に入れてみたり、親が名前のために買ったはずのお土産を一人で全部食べてしまったり、痛くしないからとサーブの練習に付き合わせて顔面にサービスエースしたり、とにかく昔からろくなことをしていない。気恥ずかしい時は「オトコオンナ」とからかったし、家でだらけている様子を「ガサツ」と周囲にばらしたりした。極めつけに髪を伸ばせば「似合ってない」、切ったら切ったで「わけわかんない」だ。こんな男を嫌わない理由があるだろうか。俺が逆の立場なら絶対に中一くらいの時点で殺している。
黙った俺を見て眉をしかめた岩ちゃんは、「本当に面倒くせえなお前ら」と言って溜息をついた。
「おめーのストーキングに付き合ってる暇ないから先いくぞ」
「えっ」
つつがなくバス停にたどり着いた名前と先輩に躊躇いなく近づいて、すぐ背後に並んだ岩ちゃんに息を呑む。「つかれ」という声に振り向いた名前が、岩ちゃんと、その五メートルほど後ろに佇む俺を見て不思議そうな顔をする。
「そっか、一くん今日部活ないんだね。徹は……なにしてるの?」
おそらくそんなことを言っているだろう彼女の口元を見ながらのそのそと距離を詰める。「みんな一年?でかいね」と驚いている先輩に会釈をして、名前の顔をちらりと見た。同じように俺を見上げた彼女と目が合い、なぜか気まずい気持ちになる。俺たちがいたからか、もとからそのつもりだったのか、自分の家の最寄りであっさりと降りていった先輩に頭を下げ、名前は少し照れくさそうな顔をした。
「制服の二人と一緒に帰るの、はじめてで変な感じ」
「そういやそうか」
「岩ちゃん白ブレ似合わないと思わない?」
「うるせえ」
久しぶりの三人の空気に、さっきまでのモヤついた気持ちが晴れていく。単純なものだと思ったけれど、一度火のついた独占欲までは消えてくれなくて今にも彼女に触れてしまいそうだ。引き寄せて閉じ込めて抱き潰してしまいたい。時おり襲いくるこの衝動を、俺はいつまで我慢できるのだろう。バスが揺れた拍子にこちらへ傾いた頭から甘い香りがして、指の先がぴりぴりするようだった。
バスを降りて地元の住宅街を歩けば、ますますここ半年間の変化が目につく。入学式の日、それぞれの母親たちがけらけらと盛り上がる中、俺たち三人は無言でこの道を歩いていた。俺は中学の頃の彼女と別れたばかりで傷心だったし、岩ちゃんは部活見学のことで頭がいっぱいだったのか難しい顔をしていた。名前のことはあまり思い出せないけれど、俺の横でじっと、履き慣れないローファーの先を眺めていた気がする。
「じゃな」
自宅への角を曲がっていった岩ちゃんに手を振り、俺は何も気にしていないふりをして少しだけ、歩調を緩めた。すっかり馴染んだらしいローファーがたしたしとコンクリートを鳴らしている。
「名前、三年とLINEとかすんのね」
「ん? うん。うちのカラー優勝して盛り上がったから」
「さっき廊下で話してんの聞こえた。俺にも教えて」
いつも応援に来てくれる女の子たちにむけるような笑顔を上手く作ることができず、随分とそっけない表情になってしまう。他意のない調子でなんとか言うと、名前は拍子抜けするほど簡単にアルファベットの文字列を教えてくれた。
「嫌われてんのかと思った」
「ど……どうして? そんなわけないじゃん!」
「この前だって泣かしたしさ」
スマホをいじりながら呟けば、名前は思ったよりも大げさに驚いて足を止めた。しばらく見ていない、彼女の家の猫のアイコンを指先でつつく。幼馴染み相手に今さら友だち申請だなんて、考えてみればおかしな話だが。
「徹は昔っからいじわるだったし、へそ曲がりなとこあったし、食い意地だってはってて私の分までお土産食べちゃうような奴だったけど」
「覚えてるんだ……」
「でも、私が貶されてたら庇ってくれたし、いじめられてたら怒ってくれた」
「……そうだっけ?」
「小学生の頃、三丁目のタケシくんに石投げられたとき、五倍くらいある岩投げようとしておばさんに叱られたでしょ」
「ああ、」
「中学のときだって、私がカンニングしてるって疑われたとき、委員長と一緒に庇ってくれた」
「そういえば」
振り向いた俺にそこまで言って、彼女は耳のあたりに指を滑らせた。長かったときの癖だろうか。
「それに」
「……」
「……徹は、かっこいいよ。いつもすごいなって思ってる。一くんも徹も、私にはできないことずうっとやってるから。ヒーローだよ」
耳が赤らむほど、まだ風は冷たくないはずだ。黒い髪からはみ出した耳たぶがひっそりと紅潮している。俺は思わず下唇を突き出して、照れかくしに憎まれ口を叩こうとしたけれど、すんでのところで飲みこんで息を吐いた。素直になろうとするのがこんなに難しいこととは思わなかった。変な汗が出て、背筋がむずがゆくなる。俺は思ったよりもガキなのかもしれない。
「……これからだよ。俺がかっこよくなるのは」
「え?」
「高校のうちに、絶対全国行くから。そしたらお前も、オレンジコート見に来るといいよ」
穏やかに言ってみると、それは思ったよりも気分のいいものだった。こうやって、少しずつ名前に優しくなれればいつか二人の関係は変わるだろうか。近づいて髪を撫でる。言葉にするのはこんなにむずかしいのに、触れるのは驚くほど簡単だった。
「その頃には伸びてるかな」
「とっくに伸びてるよ。案外早いんだから」
「……お前が思ってるより、気にしてるからね、俺」
もどかしさに口を尖らせれば、名前は静かに目を細め、くすりと笑った。名前は俺が思っているよりもずっと大人のようだった。食い意地がはっていたおかげか、背ばかりこんなに伸びた俺と比べて名前の心は何歩も先を進んでいるようだ。
「待ってて」
「……?」
「それまで、誰とも付き合わないで」
今これ以上触れたら、きっと大切な何かを壊してしまう。まずは言葉が先だ。そのほうがずっといいに決まっている。けれど俺は臆病だから、肝心なことはまだしばらく言えそうにない。
「それまでって、どれまで……?」
「俺がお前に、告白するまで」
自分でもずるい言葉だと思った。不確かなようで確かな結び目がいま二人のあいだに結ばれて、それはいつかの日までだんだんと堅くなっていくのだ。俺はこれから強くなるのだから、時間も欲望もなにもかも味方につけなければいけない。
2015.9.28