room303





 神妙な顔で正座をしていた幼馴染みが、ごくりと唾を飲んだのがわかった。色もなければ音もないこの部屋では互いの一挙手一投足がいやでも伝わってしまう。

「な、なに」
「何も言ってないけどさ」
「なにか言って」
「……キスだって」
「やっぱ黙って」

 真っ白なベッドの上、新婚初夜のようなポーズで私を見下ろしている及川徹はとても真剣な顔をしていて──それだけに、馬鹿らしかった。

「夢だかなんだかわからないけど、キスすれば出られるみたいだからさっさとしちゃおうよ」

 必死の思いで精査したこの部屋にあるのは鍵穴の見当たらない鍵とカンペのようなノート一冊だけだ。手描きのような印刷のような無個性な筆跡で、この状況に対するこれ以上ないくらいシンプルな説明文が記されている。曰く、『深く口付け合わなければ出られない部屋』
 こんな高度なお座敷遊びみたいなことをいきなり提示されたって、王様ゲームすらやったことのない私にはハードルが高すぎる。というのに、一方の徹はなにかを期待する犬のようにぱちぱちと目や首を動かして、そんなことをのたまった。

「したことあるじゃん。幼稚園の頃」
「……」

 よっと脚をくずし、私の隣に下りてきた彼をにらみつける。彼はこんなわけの分からない状況だというのに少しの曇りもない顔で表情をゆるめた。これだから体育会系は困る。考え込むよりは行動してみた方が早いと思っているのだろう。もしくは、男子はこんな類いの淫夢に慣れているのかもしれない。

「ちゃんと雰囲気つくるから」

 そう言って私の背後の床に手をついて体を寄せると、徹は見慣れたその大きな手で私のえりあしを撫でた。いつもそばにあったけれど、触れられるのは久しぶりだ。ましてや顔なんて。
 普段どこぞの彼女にやっているのだろう、幼馴染みの雰囲気づくりとやらに背筋がぞわぞわと粟立つ。妙に静かな顔をした徹が至近距離で目を細め、唇をうっすらと開いた。セクシャルなブランド品の広告でしか見たことのないような男の人の表情に、耐えられなくなり、思わず手のひらで頬を押しのける。

「や、だあ……!!」
「うえっ……!ちょっと、ありえないからねその反応!」
「そっちがありえないよ!どうして口開くの?」
「開かなきゃどうにもできないでしょ!お前どうせ開かないんだから」
「や、やだよお……っく、う」
「そんな心底悲しそうに泣かないでよ……傷付く」

 私に押しつぶされたほっぺたを擦りながら、彼はうってかわって恨みがましい目付きをする。しかし私にしてみれば、その適応力の高さや妙な自信の方がありえない。

「俺部活あるし、いつまでもこんなところ閉じ込められてるわけいかないからね」
「私だって早く出たいよ……お腹空いてきたし……」
「どうせファーストキス俺なんだから、もう一回くらいどうってことないでしょ」
「一回目も二回目も徹になったら、それこそ大問題なんだよ!私の中で」
「え!ああ……お前、彼氏とか作んないもんねえ」

 そりゃ、唇を触れ合わせる程度のそれなら羞恥心を飲み込んで耐えるくらいできる。けれど指示の通り実行するとしたらさらにその先へ羽ばたかなければいけない。そんなの無理だ。だいたい彼氏を作るとか、作らないとか、そんな粘土細工みたいな言い方をする奴にやすやすと唇をうばわれたくなかった。しかしそうは言っても、この時計のない部屋に来てからすでにけっこうな時間が経ってしまっている。トイレに行きたくなったらどうしよう。このまま帰れなかったら親だって心配する。徹の部活も私の学校も、このままじゃ行ける見込みがない。ありふれた日常に戻る手だては今のところこのふざけた選択肢しかないようだった。

「わかった……徹、いいって言ったらきて」
「オッケー、てかベッドあんのに床でするの?」
「ベッド関係ないじゃん!」
「でもべろちゅーでしょ?ベッドの方がいいと思うけど」

 なんだか彼の発言の全てが軽く思え、げんなりする。別に遊びで女の子に手を出すような男じゃないことは知っているけど、生まれてから今までの恋愛に対するハードルの低さが、彼を軽薄に見せているのだ。しかし気持ちが萎えきる前に、もう勢いでしてしまうしかない。私は息を吸い覚悟を決め、彼の肩を一度バン!と叩いた。
「いたっ」と驚いた徹が気を取り直すように自分の唇を舐める。やっぱ待って、と言う間もなく距離を詰められ、手のひらが今度は頭の後ろに回った。
 顔の向きなんて私が考える必要もないくらい、ぴったりの角度で唇を寄せてきた徹は、そのまましばらくやさしく押し付けてから、ふっと息を漏らした。小刻みにかるく吸われ、許容量が振り切れる。彼の促す意味はわかったけれど、あまりの恥ずかしさにかえってどんどん口を引き結んでしまう。必死で首をふるけれど、手のひらがかっちりと私の頭蓋骨をホールドしているため下を向くことができない。反射的に身を引いた動作そのままに、床へ倒れこんだ。やっぱりベッドですればよかっただろうか。いや、そんなのは尚更ダメだ。何度もやわやわと吸いつかれては、舌先でつつかれふやけてしまいそうだ。開けろ、と呟いた徹の吐息が濡れた唇の上を滑って泣きそうになる。
 長引けば長引くほど羞恥は増して行為も執拗になるとわかっていても、わけのわからないドツボに嵌まってしまいどうしようもない。あやすように髪を撫でていた指がふいに降りてきて、耳たぶに触れる。ぴくりと揺れた私の肩を見逃すはずもなく、こわごわと開いた目に、徹の嫌な笑顔が映りこんだ。耳に口を寄せられ、どれだけ顔が熱くなっているかがばれてしまったと思った。

「耳弱いとか、お前もけっこうかわいいとこあるね」

 ぴったりとくっつけたまま喋るため、唇の動きと音の震えが耳朶を刺激してしょうがない。私の五感を溶かすつもりなのか、耳の中に湿った息を吹き込まれ、耐えられなくなった私は逃げるよううつ伏せになった。しかしそれがかえって悪かったようだ。向きを変えたところで守れるわけもなく、今度は後ろから食まれる。引き結んでいた唇がほどけ、息が漏れた。それを掬うように、彼の長い指が口内へ侵入する。

「指で練習する?」

 徹の声はいつになく愉しそうだ。私のお気に入りのぬいぐるみをどこかに隠してはしゃいでいたあの時と似ているけれど、それよりもずっと熱がこもっている。差し入れられた中指が舌の表面を撫でつけてぴちゃりと音が鳴った。抗議をしようにも漏れる声はすべて吐息まじりの色めいたものになってしまう。いつもはあんなに朗らかにフェミニストぶるくせに、どうしてスイッチが入ると際限なく意地悪になるのだろう。徹の意地悪スイッチが一度入ると、私が泣くまで悪さをやめないのは昔からだが、今日に至ってはもうとっくに泣いているのにやめてくれる気配がない。叩くなら折れるまで、と得意げに豪語していたのはいつのことだっただろうか。思春期の戯言と思い聞き流していたけれど、人の性根はそんなに簡単に変わらないようだ。

 かき乱された唾液と、息苦しさからくる涙が床へ落ちる。とうとう限界がきた私は、ぐったりと力を抜いて彼の指を甘噛みした。もう許して、と従順に指を舐める。それに満足したのか、彼はしばらく私の舌先を弄んだ後、ゆっくりと指を抜いた。軽々と体を裏返され、再び仰向けになる。うっとり慈しむような顔をした徹が、酸素を求め開いた私の唇に噛み付いた。指よりもずっと柔らかく、体中の神経をとろかしてしまうような甘い感触が口の中を満たしていく。興奮しきった徹の熱い息がどんどん私の中に入ってくる。舌を上手に絡めとられ、キスだけでこんなにめちゃくちゃになるなら私は一生それ以上なんてできないと思った。どれくらい唇を合わせていたのか、酸欠に朦朧とする私に気付いた徹が顔を上げた。無酸素運動に慣れた体力オバケの相手をいつまでもしていたら死んでしまう。涙でにじんだ目を開けると、予想外に彼の方も苦しそうな顔をしていた。

「なんだろ、これ、目眩が」

 息を乱しながら、がくりと私の上に覆いかぶさり、脱力する。70kgはあるだろう体躯に押しつぶされ意識はますます混濁した。
 真っ白だった天井が、ゆらゆらと陰っていく。

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 徹のデスクトップパソコンのスクリーンセーバーが、目の端で揺れている。
 だるい体を起こし、頬についた畳のあとをなぞりながら首をひねった。一体いつの間に寝てしまったのだろう。

「……徹、冷房つけないと、熱中症なる」
「……んあ」
「なんか、すごい頭ぼんやりするね」

 高校生にもなって二人でうたた寝してしまうなんて、まるで幼い頃に戻ったみたいだ。冷房のリモコンを探しながら徹を見下ろすと、ほてりきった顔をした彼が慌てて後ろへ寝返った。

「……へーき?」
「……わかんないけど今、なんか凄い夢みて、とてもお見せできない状態になってるから」

 お店?なんの?夢?
 ぼんやり考えていると、中途半端な体勢で顔だけをもたげた彼がにじりにじりと近寄ってきて、私の膝を掴んだ。正直気味が悪い。

「名前、電気消さない?」
「え、寝るの?なら帰るけど」
「寝ないけど」
「なんなの」

 そのままゾンビのようにのしかかってきた徹の体重を、支えきれずに倒れこむ。ぺたりと畳に頬をついて、互いの顔を見つめた。幼馴染みといえど近い視線に困惑する。しかしなぜかその距離に違和感を感じられず、私は素直に彼の目を覗き見ていた。

「耳、さわっていい?」

 真剣な顔でそう言った彼に、どうしてか涙がにじむ。徹の素足が私のつま先をこすった。電気を消すにしても、冷房はつけなければいけない。

2015.7.20
ハッピーバースデー及川徹くん


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