あの村から出たことのない私にとって、そこが魔族の城だろうと人間の城だろうと大差はない。甘い香りが部屋から消え去るころ、どうにもじっとしていられなくなり、部屋の重い戸を開けて外をのぞき見た。 絢爛豪華なようでいてどこか閑散とした城の廊下は、蝋燭を一つ一つと灯しながらまっすぐ先へ続いている。突き当たりは薄闇にまぎれていたけれど、目を凝らせば、どうやら上へ向かう階段があるらしかった。そっと足を踏み出し、静かに戸を閉める。素足に石の冷たさが心地いい。火の気は蝋燭しかないというのに、城の中はそう寒くなかった。一枚羽織っただけのガウンも不思議なほど暖かい。突き当たりに近づくにつれ、流れこんでくる外気を感じ、階段は外に通じているのかもしれないと思う。長い廊下に絵画や装飾品は一つもなく、閑散として見えるのはそのせいかもしれないと思った。
「お姫さん、下手にうろつくと食われるよ」
ちょうど階段の前まで来た時だった。角の壁に隠れるように立っていた人物に声をかけられ、思わず悲鳴を上げそうになる。あわてて自分で口を覆った。
「なんてね、この城にアンタに手をだそうなんて馬鹿はいないけど」
トオルと同じ、もしくはそれ以上の背丈だろうか。彼とは違い、細く鋭い槍のようなツノを天に向けて生やした男は、私の体を上から下まで眺め回したあとニッコリと人当たりのいい笑顔を浮かべた。魔族というのは皆こんなに大きく力強く、そのわりに人を誑かすような笑みを浮かべる生き物なのだろうか。
「か、勝手にうろついて、すみません」 「いや、いいんだけどさ。逃げようとしたら殺されちゃうかもね」 「……トオルにですか?」 「トオルって大王サマのこと?そんな名前あるんだ。付き合い長いのに聞いたことねえや」 「あの、あなたも魔族ですよね?トオ……大王様の家族なんですか?」 「まさか」
赤いローブを揺らしながら、彼は楽しそうに笑う。愛想よく細められたまぶたの奥で、腹をすかせた猫のように光る目が、少し怖い。
「俺はここにしばらく間借りさせてもらってるだけ。利害一致の居候だよ。ここは大王の建てた城だけど、今ははみ出し者の住処になってるからな」 「そうなんですか……」
どれだけの広さかはわからないが、この城に一人で住んでいるとしたら寂しいものだと思っていたので安心した。彼にも仲間がいるようだ。しかしなぜ、こんな山の奥に城を建てたのだろう。部屋の窓から望んだ景色は見わたすかぎりどこまでも広がる青い森で、遠くの地平にはさらに険しい山肌がそそり立っていた。周囲に人や魔族など文明の気配は感じとれない。
「大王サマなら向こうで拗ねてるよ。行ってやりな」
階段を顎で示し、彼は軽く溜め息をついた。私たちが諍い続ければ自分たちも迷惑をする、といった様子だった。
「あの……大王様は、どうしてここに城を?」 「……這々の体で逃げてきたところを、助けたのはアンタだろ?」 「はい。でもその後のことは知りません。彼のこと、なんにも知らないんです」
怖くて本人に聞くことができないさまざまなことを、こうして他人に尋ねるのは気がひけるけれど、少しでも彼を理解しないことには私だって身の振り様を決められない。
「まあ、あいつの育ちは特別だよ」
魔族の普通や特別を、私にどれほど理解できるかはわからないけれど聞かせてほしかった。名も知らぬ男の目をじっと見て、口を引き結ぶ。彼は少し躊躇ったあと、腕を組んでどこか遠い目をした。
「怪我の理由も、お家騒動っちゃそれまでだけど。正直あの家を敵に回してよく死ななかったもんだ」 「家を敵に……?」 「力がありすぎたのさ。切れすぎる刃は刃向かう前に処分ってな」 「……親は、家族は、守ってくれなかったんですか」 「守るもなにも、奴の腹に穴をあけたのは実の母親だ。魔族の子なんてほっといたって育つけど、さすがに憎まれてたらすくすく育ってもいられないみたいだな」
彼の言葉は、想像していた以上に私の胸をえぐった。 直視できないほどの傷を負わされ、満身創痍で草葉の陰にうずくまっていた幼い姿を思い出し、胸が痛む。私がいなければ諦めていたと、彼は言った。なにを、だろう。愛されることだろうか。生きることだろうか。彼の望む、全てをだろうか。「はじめてだった」「あの思い出だけを頼りに生きた」今になって、彼の言葉が私を激しく揺さぶる。頭がじんじん痛くなって、おでこが熱くてしょうがなかった。この子を救いたいなんて、体の傷だけを見て必死になっていた自分があのとき、彼に与えたものはなんだったのか。きっと、私自身でも抱えきれないほどのものに違いない。
「大王様は、私の話をしていましたか」 「アンタの話ばっかしてたよ。俺でもうんざりしたくらいだから、アンタにとっちゃたまんないかもな」 「それはいいんです。私だって彼に救われたから。一緒に生きることにためらいはありません。でも、どうしても、きりをつけなくちゃいけないことがある。……譲れないんです」
きっと彼は私に、得られなかった母性のすべてを求めている。理由も条件もない、無償の愛情を求めているのだ。誰かのためになんていう交換条件は、彼の欲するものではないだろう。しかし私だって、自分のせいで今も眠る幼馴染みのことだけは諦められない。
「ありがとうございます……」 「クロ」 「え?」 「名前。これから、ここで暮らすんだろ」 「…………はい。ナマエ、です」
迷ったすえ、私は首を縦にふった。クロさんにお礼を言って、階段を上っていく。城の外は少し肌寒く、村で見たときより少しだけ面積を増した月がしんと木々を照らしていた。ぐるりと見渡して、視線を留める。城壁の上で、傷ついた鷹のように背を丸めている男の姿が目に入った。夜風をまとったローブがゆらゆらと不安定に揺れ、彼の心を映しているようだ。
「わかってる。俺が勝手にお前を欲しがってることくらい」
背後に近づくと、彼は呟くように言って、そのまま遠くの山に目を向けた。雪をかぶった白い山脈が夜空のふちで波打っている。もうじきここも冬に飲み込まれるのだろうか。
「俺だって、ナマエを悲しませたいわけじゃないんだ。ナマエの言うことならなんでも聞きたい。叶えてやりたい。俺にはそれができる」 「……うん」 「でも、怖いんだ。そいつを助けることだけは。だって、そいつが目を覚ましたら……」
彼は一度そこで言葉を切って、息を呑んだ。震える鼓動が夜をつたいこちらにまで伝わってきそうだった。
「俺は?」
月の光が雲にさえぎられ、彼の姿を見失う。今この瞬間、つかまえなければいけない。何も見えない、何にもしばられない闇のなかで、確かな言葉を発さなければ。
「私はあなたと生きるよ。そう決めた」
彼が振り向いたのがわかった。どんな顔をしているかは、わからない。彼のことをまだ知らない。これから、知っていくのだ。少しずつ、たくさん。
「大丈夫」
真っ暗闇の中に響いた声は、自分でもびっくりするくらい優しいものだった。
「だいじょうぶ?」 「うん。大丈夫」
いつの間にか近づいた声が、小さく聞き返す。答えながら腕を伸ばした。手探りで触れようとした手のひらを引き寄せられ、彼の匂いに包まれる。体も胸も、痛くなるくらい強く抱きしめられ、耳元が湿るのを感じた。大王様はずいぶんと泣き虫だ。それとも、私の前でしか泣けないのだろうか。
「あの時みたいだ。体の中があったかくなって、力が入らなくなる。俺が欲しかったものって、たぶんこれなんだ」
縋り、もたれるような抱擁に、私も過去を思い返した。私だってあの時、彼がいたから生きていこうと思えたのだ。最初から私たちは互いの命だけで繋がっていた。月はまだ隠れている。今だけはなにも考えず、彼の背を抱き返しても許されるだろうか。
2015.6.7
|