I've got the guts to die.
背中からなにかが溶けていく感覚にぞくりと震えがはしり、頭の中の霧が晴れた気がした。 あの日、まだ幼い少女だった私は気づけば家のベッドで眠っていて、とても壮大な夢をみたのに思い出せないときのような欠落感に、しばらくの間惚けていたのだ。そして時間が経つにつれ、それはますます本物の夢のように薄れていき、眩しい光のみとなって頭の中にやきついた。
「思い出した?」 「……あ、なたは」 「名前、教えてなかったね。どうせ忘れちゃうと思ったからさ」
彼はそう言って私の頬を両手のひらでつつみこみ、じっくりと見つめた。私の体も彼の体も、うっすらと光を発していたため互いの顔はよく見えた。精悍な男の顔の中にあどけなかった彼の面影をみつけて、胸がざわつく。いろいろな思い出が蘇って呼吸が乱れるようだった。なぜ忘れていたのだろう。数日間の鮮烈な記憶は、私の人生をがらりと変えてしまうほどのものだったのに。なにも言えずに唇をわずかに震わせていると、彼は思い立ったように黒いローブを脱いだ。暗闇の中で鈍く光るツノは思い出の中のそれとは大分違っていた。金箔を貼りつけたように美しく、丁寧に造られた、古い調度品のようだった。
「綺麗になったね」
彼はそう言ったけれど、彼の方がずっと綺麗になっていた。彼の過ごした年月が私と同じものとはとても思えない。同い歳だと言っていたあの言葉が本当なら、まだ十六、七かそこらのはずなのに、彼のまとう雰囲気は人間の青年のそれとは全く違っている。夜の山に感じるような、古から続くものに対する畏怖を感じざるをえない。魔族と人間とでは、時の流れや受け継いできた血の濃さがはっきりと異なるのだと思い知る。 震えを止められずにいることに気付いているのかいないのか、彼は私の体に丁寧に手をはわせたあと、肩を押しのしかかってきた。体も存在も強く大きい魔族の青年に組み敷かれ、恐怖以外の感情が消え去る。とっさに押し返そうとした腕に気付くそぶりもなく、私の体を裏返した彼はうなじに唇をつけながら寝巻きの襟口を引っぱった。思わず悲鳴がもれる。
「やめて!」 「ん、だいじょうぶ。力抜いて」
迷いのない力ではぎ取られ、母の形見の夜着の布がひきつれていくことが悲しかった。むき出しになった背中に濡れた感触がはしる。ちょうど熱をもった痣の上にキスをされ、身がすくんだ。恥ずかしさと恐ろしさにベッドの上へずりあがろうとしても、抱え込まれて動けない。
「俺のだ」
身をよじった私のおでこに、自分のおでこをくっつけて、彼は本当に嬉しそうに笑った。きゅっと首をすくめ目尻を下げるしぐさは、楽しい気持ちを我慢できない子どもが全身で幸せを噛みしめる時のそれだ。嬉しい。好きだ。幸せ。やっと会えた。彼から溢れ出るむせかえるほどの幸福感にあてられて目眩いがする。
「おねがい、まって」 「うん?」 「こわい、こんな、きゅうに!」 「……でも俺は六年も待ったんだよ」
「魔族の繁殖期なんてとっくにむかえてたのに」彼はそう言って少し悲しそうな顔をした。とりあえず、言葉は今でも通じるようだった。茶色い瞳はあの頃と変わらずに透明で澄んでいて美しい。それでも今、なにも考えず全てを明け渡すわけにはいかない。
「お互いに、話すことがあるよ」 「話すこと?」 「だって私たち、まだなにも知らないでしょう?」 「ナマエは俺の恩人で、俺が印をつけた女の子だ。それだけで充分だよ」
そんなマーキングを許可した覚えはなかったし、それがどれほどのことなのか、魔族のルールなんて私にはわからない。確かに彼の印とやらは私を一度守ってくれたけれど、同時に私を悲しみに追いやったきっかけでもある。
「あなたは、私をどうしたいと思ってるの……?」 「結婚して一緒に暮らす以上のことは望んでないよ」 「……けっこん」 「城へおいで。急だって言うなら、今から俺のところに行こう。俺は魔族の中でも一応王族だから、貧しい思いはさせないよ。そこで改めて、俺のものになって」
そこがどこなのかは、たぶん聞いてもわからないだろう。彼が近所に住んでいるはずがない。彼の目に迷いがないのは、きっと私が拒むと思っていないからだ。私が彼のものになるのも、彼の城に行き一緒に暮らすことも、彼の中ではとっくに決まっていることなのだろう。おそらく、六年前から。
「一つ……」 「……?」 「一つだけ、おねがいが、ある」 「なあに、言ってごらん」
やさしく髪をなでられて、少しだけ体の力が抜ける。彼の迫力に圧倒されてはいるけれど、私に対して害意がないことは確かなのだ。言葉を尽くせば対話もできる。生きる理が違うとしても、歩み寄ることはできるはずだ。
「……あなたの残した印が、光を発したことがあった」 「……」 「二度。私はそのときあなたのことを忘れていて、それがなんなのかわからなかったの。一度目は盗賊に襲われたときだたった。ありがとう、守ってくれてたんだね」 「そうだよ。ナマエが心配だったから、守護の魔法をかけたんだ」 「二度目は……」 「うん、こわかったね。可哀想に」
最後まで聞かず私を抱きしめた彼に、首を振って先を話す。
「二度目は、違うの。怖い思いはしてない。けれどその人は……眠ってしまった。あの日から目を覚まさないの。ずっと、どうしたらいいかわからなかった。……おねがい、もしあなたにできるなら、彼の目を覚ましてあげて」 「……」
言っているうちに苦しくなって、声が震えてしまう。彼はもう二年も眠ったままだ。なす術なんてないと思っていた。けれど、もし魔法をかけた本人が彼の呪いをとけるというのなら、私はなんだってする。
「……それって、どういうこと?」
抑揚なく聞き返した彼に「だから私の」と言いかけて、その後が続かなかった。
「言ってることがよくわからない。……からだを許したってこと?俺以外に?」 「……」 「どうして?」
害意がないなんていうのは、私のただの希望的観測でしかなかったようだ。いつのまにか部屋の中には大きな風が渦巻いていて、温度も真夏の夜のように上がっていた。かたかたと食器がなり、シーツが大きくめくれ上がる。彼の感情によるものなのだということは、その表情を見ればわかった。
「そいつの目を覚ませって?」 「……」 「笑わせるなよ」
うっすらと細められた目の奥で、金色の瞳孔が開いている。さっきまでとはまったくちがう色だ。金縛りにあったように体が硬直し、私は否定も肯定もできなくなっていた。わずかに動く肺から、細く息を吸うので精一杯だ。
「どこにいるの」 「…………え?」 「その男。村の人間?」
先ほどとはまったく違う震えが背筋にはしり、からからに乾いた喉の奥から、なんとか声をしぼりだす。
「どうして……?」 「そいつの居場所を教えて」
脱ぎ捨てたローブを再び羽織り、彼は窓の鍵に手をかざした。おかしな音をたてひしゃげたそれが、シーツの上に落ちる。開け放たれたガラス窓から本物の夜風が舞い込んでカーテンがゆれた。いつのまにか、空まで荒れているようだった。私はローブの裾を握りしめ、必死に首を振る。
「なにをするの?……やだ、やめて!」 「言いたくないならそれでもいい。村ごと焼くほうが楽だ」 「なに言ってるの……!?やめて、おねがい、そんなことしないで!!」 「お前はお願いばっかだね。俺のお願いは聞いてくれないのに」 「なんでもする!あなたのものになる!だから村には……!」 「黙れ!!他の男のために俺の言うことを聞くって?ふざけるなっ、そんな……そんなこと、どうして……!」
一際大きく揺らいだ彼の感情が、部屋の中を荒らしていく。食器はすべて棚から落ち、大事にとっておいた野菜も床へ散らばった。真っ赤なトマトがつぶれている。彼のお母さんに貰ったものだ。重力を乱された室内で、家具がおちつきなくわなないている。
「どうしてそんなこと言うんだ!ナマエは俺のなのに、あの日からずっと……!」 「わたしは……」 「奪おうとしたのはそいつのほうだ。死んで当然なのに眠ってるだけ?……俺が直々に手を下してやる」 「や、やだあ……っ、やめて」 「なんで、そんな顔、するの」
うっすらと膜をはった彼の瞳に、月の光が映っていた。男の人のこんなに悲しそうな顔を見るのは初めてのことだった。眉を強く寄せ、捨てられた子どものような顔で私を見る彼に、どうしようもない気持ちになる。彼のことを憎みたいわけじゃない。けれど私にだって望むことがある。諦められない願いがあった。もしも彼の目が覚めるのなら、この大きな子どもを受け入れて一生連れ添う覚悟だってできる。けれど彼は、それだけはできないと言った。
「呪いをとかないなら、もし彼を殺すなら、私も一緒に死ぬ」
いつの間にか震えはとまっていた。代わりに、彼が震えている。
「やめてよ……っそんなこと言わないで……」
大きく美しいツノをもった魔族の青年は、ベッドの上で自分の腕を抱え込み俯いていた。可哀想で、胸が痛んで、昔のことを思い出す。思えば私は最初から、可哀想な彼を助けてあげたくてしょうがなかったのだ。そばに寄って手に触れる。
「だいじょうぶって、言って」
私の手を握り返し、彼は縋るようにそう言った。 唇を奪われ、そのまま、意識すら奪われていく。閉じていく思考のはしで幼馴染みのことを思った。ハジメくんを、ころさないで。
2015.5.28
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