I'll see you when I see you.
それは二度目のことだった。
一度目は、守ってくれたのだと思った。あわや盗賊の餌食に、という瞬間に現れた光の線は彼らを一瞬にしてなぎ倒し、その場所にまた染み込んでいった。 しかし、二度目は私の望むところではなかった。胸はドキドキと高鳴っていたけれど、私を見下ろす彼を怖いとは思わなかったからだ。それでも結果は同じだった。背中から吹き出した熱いエネルギーが彼の体を貫いて、生気を奪っていく。日常は、あっという間に変わってしまった。 嘆くたびに痣が痛む。背中の真ん中が熱くてしょうがない。この痣は、いつからあるのだろう。思い出そうとしても、頭に眩しい光景が広がるばかりで実像を結ばない。どこかで聞いたような優しい声が、なにかを言っている気がした。
◆
村の工場は山をおりて半里歩いたところにあった。私は毎日日暮れすぎにそこから戻り、森の手前にある彼の家へ寄る。
「おばさん、これ、空き時間にくず糸で編んだんです」 「あら綺麗ね、ありがとう。でも気を使わなくていいのよ、忙しいんだから」 「……どうですか?」 「今日も相変わらず。これ、あの子の部屋に飾るわね」
おばさんは今日も優しい笑顔でそう言って、私にお茶をいれてくれる。何度となく上り下りした階段をむくんだ足で踏みしめて、いつものように一つ息を吸った。ゆっくりと吐いて、ドアを開ける。
「ただいま」
おばさんによく似た彼の笑顔を思い出しながら深呼吸をすると、自然と優しい声が出るのだ。もうずっと、それが私にできる精一杯のことだった。返らない返事にまた少し痣が痛んで、口のはしから彼の名前がこぼれ落ちる。もちろんそれにも返事はない。黒い眉は眠っているとは思えないほど凛々しく、顔色だってそれほど悪くはない。それも、いつも通りだ。
「ナマエちゃん、これもっていきなさいな」 「いつもすみません……」
階下へ下りると、おばさんが布の袋を掲げていた。中からは真っ赤なトマトが覗いている。お礼を言い受け取って、もう一度たしかめるとトマトの脇に薫製のハムとバターが包まれていた。
「こんな高価なものもらえません……!」 「なに言ってるの。あの子が目を覚ましたときナマエちゃんの元気がなかったらがっかりするでしょ。成長期なんだから、食べなさい」
返せるものがないどころか、罪悪感ばかりが膨らむというのに彼女はそれすら笑顔で包み込んでくれる。今日まで私がなんとか生きてこられたのも、おばさんを初めとした一部の村人の優しさのおかげだった。彼らは私を可哀想だと言うけれど、私は自分を不幸だとは思わなかった。それどころか、本当に恵まれていると思う。村はずれにある私の家の、一番近くに住む彼らが、いつも支えになってくれていた。おばさんもおじさんもとてもあたたかい人で、息子である彼だって、ぱっと見はぶっきらぼうに見えたけれどとても優しかった。そんな彼とともに育ち、私たちはいつの間にか、衝動のまま互いに触れ合いたいと思う年齢になっていたのだ。しかし、それは叶わなかった。
「ありがとうございます。大事にいただきます」 「気をつけて帰るのよ。最近はまたオオカミが山へ戻ってるみたいだから」 「はい」
ランプに火を入れて、歩き慣れた山道を戻る。ある頃からめっきり見なくなったオオカミたちが、近頃また群れを作っているらしいことは工場の人からも聞いていた。山の裾野まで下りてくることはめったにないと思うけれど、少し怖い。使い古したランプを揺らしながら足を早めた。
人がいなければそこに家があることもわからないような場所だ。木戸を開けてランプの火を燭台に移し、部屋の二隅に置いた。室内がやわらかく照らされる。この対の燭台にろうそくをさすと、他の灯りよりずいぶん光が大きく広がる気がする。むかし家に人が来たときも、そのつくりを不思議がっていた。なにか良い金属が使われているのだろうか。 貰ったトマトを戸棚に置き、ハムとバターを蝋紙に包んで床下に入れる。お賃金で買った卵もまだある。しばらくはいい生活が送れそうだ。そう思って一心地つくと、急に眠気が襲ってきた。工場の仕事は座り作業だけれど、一日が終わる頃には肩や腰が凝りかたまっている。昼過ぎにまかないをいただいたし、今日はもう寝てしまおうとろうそくを消した。母のおさがりの寝巻きに着替え、瓶の水で手足を拭いてベッドに倒れ込んだ。
◇
遠くで、オオカミが啼いた気がした。 布団から出ていた足をぎゅっと丸めこむ。腐りかけた庭の柵が気にかかった。 民家にまで侵入してくるとは考えづらいが、暗い夜に一人でベッドに入っていると恐ろしいことばかり考えてしまう。そんな時はきまって大切な人たちの顔を思い浮かべた。母のこと、おばさんのこと、彼のこと、おじさんのこと、うっすらと記憶に残る父のこと。そのうちの半分はもう、会うことのできない人だ。そして彼も、向こう側へ足を踏み入れてしまっている。はやく、戻ってきてほしい。みんな私をおいてどこかへいってしまう。あの子だってそうだった。……あの子とは、誰のことだろう。思い出せない。 物心つくまえに死んでしまった父親より、さらにぼんやりと霞のかかった存在が、けれどもたしかに私の中にいるのだ。それを追い求めているうちにいつも眠気に飲み込まれ、たどり着けないまま朝が来てしまう。思い出せたことは一度もなかった。今日もそうだ。まっ暗なまぶたの裏に赤い光がうつり、記憶が混濁していく。これは朝日の赤だ。そして私の背中から発される、おそろしい赤でもある。林檎の赤、でもあるのだろうか。林檎? 甘い味が口の中に広がった。やんわりと幸せな感覚のまま、光の中に溶けていく。今日もまたたどりつけない。惜しいところまできているのに、眠りに落ちてしまう──と、くやしく思ったときだ。 鈍い物音がして、急速に意識が現実へ引き戻された。 自然とこわばった手足を体に引き寄せ、そろそろと起き上がる。布団を握りしめながら気のせいだろうかと耳をそばだてていると、もう一度、たしかに嫌な音がした。風もないはずなのに、木の柵がこすれる……いや、これは柵ではなく木戸の音だ。思ったよりも近くに差し迫っているらしい危険に、気付いたとたん冷や汗がつたった。 ベッドの上で縮こまり、部屋の入り口を凝視する。とっさに枕元の水差しを手に取ったけれどこんなものじゃ武器にもならない。ぎしぎしと軋む音はだんだんと大きくなり、とうとう木枠の歪みが目に見えるほどになった。盗賊だろうか。無意識のうちに、背中の痣を思った。しかし扉が打ち破られ、黒く大きな影が部屋に侵入してきてもなお、痣は冷や汗とともに冷めきったままだった。きっとあんなことがあってから、この痣を憎く思っていたせいだ。都合良くまた守ってほしいなんて、望むわけにはいかないのだ。
「ナマエ」
侵入者は、私の名前を知っていた。 ゆっくりとていねいに名を呼ばれ、頭の中が混乱する。伸びてきた大きな手のひらが頬を撫でた。無遠慮にベッドへ乗り上げてきたその男は、私の体に腕を回し、強く抱きすくめる。恐怖と困惑でうまく抵抗することができない。
「久しぶりだね」
ふいに懐かしい感覚がよみがえり、私はいま夢を見ているのだろうかと思った。いつものように過去を探って眠りの中に沈み込み、ここへたどりついたのだろうか。しかしそれにしてはずいぶんと感覚がなまなましい。
「いい子にしてた?」
耳元に落とされた声はやはり私の知っているものだ。いつもどこかから聞こえてくる、掴みきれない声。光に満ちていて、胸が熱くなるようなそれを、今夜ようやく探しあてたというのか。夢でなく、現実の世界で、こうして。 彼の指がゆっくりと背中を撫でる。痣が熱をもつのを感じた。
2015.5.28
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