「よくわからないけど、おいしいね」
彼女の持ってきてくれたスープには見たことのない物がたくさん入っていて、はじめは戸惑ったけれど、口をつければ温かさに心が和んだ。
「知り合いがお野菜くれたの」 「これが野菜?知らないのばっか」
長いこと食べなくたって死にはしないが、食を楽しむ文化は魔族にもある。しかし人間の世界の食べ物はなんだか複雑な形と味をしていて、魔族のそれとは少し違っていた。きっと食べないと死ぬ生き物だからなのだろう。 結局、あれから彼女は毎日のように俺の元へ来るようになった。日が暮れたころに山道を登ってきて、少しの食べ物と水を置いていく。風雨をしのげる場所を探して少しだけ移動した俺は、森の中の崩れかけた石祠の端で眠っていた。俺の顔色が日に日によくなっていくことに安心したのか、傷の手当ては一度包帯を変えたきりだ。最もそれ以上のことが彼女にできるとは思えない。魔法の傷は魔法でしか治せないのだ。
「きみ、いくつなの」 「十。十一歳になったら、村の製糸工場で働くの」 「十?俺と一緒だ」 「……本当?大人っぽいね」 「魔族って成長が早いんだ。そんで、老いるのは遅い」
俺と比べれば格段に弱々しい腕で膝を抱え、彼女は目を丸くした。彼女のスカートはどれも清潔ながらくたくたに色落ちしていて、数少ない物を丁寧に使い続けていることが伺えた。つましい、と言えば聞こえはいいが、きっと俺に食べ物を分けている余裕などないのだ。それでも、なぜか彼女から貰うそれらを断ることができない。
「顔色、よくなってきたみたい」 「うん。お腹の穴がまだちょっと涼しいけどね」 「……いたくないの?大丈夫?」
彼女の言う「だいじょうぶ」という言葉の響きが好きだった。俺は真似をしながら「だいじょうぶ」と頷く。言っておいてくすぐったくなって首をすくめた。人に体の様子を気にかけられることなんて慣れていなくて、なんだか照れる。だいじょうぶ。すごくいい言葉だ。
「痛いけど、べつに平気」 「治ったらどうするの?家は?お父さんお母さん、きっと心配してるよ」 「……そうだね」
俺がこうしてどこかで生きながらえているんじゃないかと、心配していることだろう。いつ追撃がきてもいいように、もっともっと強くならなければいけない。そのためには場所を移る必要があった。国を二つ越えて、まだ魔族すら足を踏み入れていない西の荒野の方へ、しばらく身を隠さなければならない。しかしどうにも離れがたかった。
「明日、山の上までいこうか」 「頂上?そんなの子どもだけじゃ無理だよ」 「朝五時にここに来て」
戸惑う彼女に約束をとりつけて、また明日と手を振る。苔むした石畳に寝転がってぼんやりと天井を眺めた。人間の宗教のことはよくわからないけれど、この場所は嫌な感じがしない。朽ち果てた石像の残骸たちは、俺のよく知る形をしている気がした。 彼女のことをもっと知りたかったけれど、村へ下りることはためらわれた。下手に村人を脅かしても面倒くさいし、魔族と関わっていることがばれて彼女が疎まれるのはかわいそうだ。このまま攫ってしまいたいと思ったけれど、きっとまだ早い。彼女の白い頬に触れてみたいという欲求だって、もう無視できないものになっている。けれどそれだって今するべきことではないのだ。時間が必要だと思った。魔族と人とでは成長の速度が違う。どこかで交差するその日まで、待たなくてはいけない。それに、望むものを手に入れる前に、するべきことがいくつかある。 初めて感じる気が逸るような衝動をお腹の奥に抱えて、小さく丸くなった。目を閉じて、彼女の柔らかさを思い出す。とくとくと鳴る自分の鼓動が聞こえて、不思議なほど眠くなった。
◆
日が昇る前から、晴天であることはよくわかった。うっすらと白む明け方の空が木々の間からのぞいている。彼女は眠たそうに目をこすりながら、小さなカゴに一つ入れた赤い果実を差し出した。
「ありがと、向こうで食べよう」 「向こうって?わたし、夜明けにはうちに戻らなくちゃいけないよ」 「だいじょうぶだって」
そう言って、彼女の細い肩に手を伸ばす。体の底から風を生み出して、足の裏に軽く力を入れた。ふわりと体が浮き上がり、空気を含んだ二人の服がまあるく膨らんでいく。とっさにスカートをおさえた彼女の手から、滑り落ちたカゴを受け止め、彼女ごと抱きしめる。高い声をあげてしがみついてくる彼女を支え、木々の上まで昇り抜けた。朝の風が空にむかって吹いていたため、それにのる。彼女の軽い体は俺の力が効きすぎているのか、上へ上へと浮いてしまい胸元に閉じ込めておくのが大変だった。
「……ひゃ、あ、落ちる!こわい!」 「落ちないよ。それより浮きすぎ」 「だって!離さないで」 「離さないってば。おちついて」
山の中腹でぷかぷかともみ合う俺たちを笑うように、大きく風が吹いて一息に山頂を超えてしまう。こわばる体を両手で抱え込んで、ゆっくりと頂上に舞い降りた。
「びっくりした?」 「すっごく!」 「ごめんごめん、でも気持ちよかったでしょ?」 「……ちょっと」
ぼさぼさになった髪の毛をととのえてやりながら、大きな岩のすきまに座り込んだ。カゴの中でまだふわふわと浮いている果物を指で飛ばして、彼女のスカートの上に乗せる。
「すごい、本当に魔法つかえるんだ」 「じゃなきゃとっくに死んでるよ」 「林檎、食べる?」 「食べる。もうすぐ日が昇るよ」
遠くに見える山の際はすでに赤く色づいていた。リンゴを半分だけかじって彼女に渡す。
「中は白いんだね」 「甘いでしょ?」 「すごく甘い」
彼女が残りの半分をかじろうとした時、お日様の最初の光が水平に差しこんできて目を細めた。彼女も同じようにまぶしそうにして、笑う。
「綺麗だね」 「うん。ねえ、名前は?」 「え?」 「おまえ、なんていうの?」 「……ナマエ」 「ナマエ、必ずまた会いにくる。それまで、待っていられるね」
あやすようにそう言って、抱き寄せた。なにも言えないでいる彼女の背中を指でなぞり、力を込める。 朝日の中で赤く光った俺の指先の熱が、ナマエの背中から心臓の裏へと染みこんで消えた。彼女は苦しそうに一度息を引きつらせ、ぐったりとこちらへもたれかかった。半分になったリンゴがこぼれ落ちてどこかへ転がっていく。 印をつけておかなければいけない。いつでも会えるよう、他の者にとられないよう。
「迎えにくるから、忘れないで」
意識を失った彼女の耳に、唇をつけてささやいた。だいじょうぶ。生きていく理由ができたのだから、俺は一人でもきっと強くなれる。
2015.5.22
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