晴れ歌


prologue


 もう二度と覚めることはないと思っていた目に、ふいに月の光がうつりこむ。乾いた口に冷たい水があたり、首元へと溢れていた。のどを動かして、なんとか飲みくだす。それを繰り返しているうちに体のそこここに感覚が戻った。焼けるような痛みはあるけれど、それよりも逃げていた魔力が再び腹のあたりに溜まっていくのを感じる。俺の体は俺が思っているよりもずっと強いようだった。我ながらに恐ろしい。

「血が……」
「たぶん、とまる」

 かすれていたけれど、半日ぶりに声が出た。この森に逃げてきたのはだいぶ夜が更けてからだ。俺の隣にしゃがみこんでいる彼女は、俺くらいの子どもに見えるけれど、こんな時間に外にいていいのだろうか。月の位置はもうすっかり高くなっている。

「きみは、かえらなくていいの?」
「大丈夫」

 頷きながら、俺の体にランプを寄せてきたため手で制した。彼女は俺を行き倒れの孤児かなにかだと思っているのかもしれないが、オオカミに襲われたとか、盗賊に乱暴されたとか、その程度と思い手を差し伸べるならローブの下の惨状なんて見せられない。

「お医者さまに」
「へーきだよ。触らないで」
「でも」
「水、ありがとう。あしたには移動するから、ほうっておいて」
「また、オオカミが出るから」

 食い下がる彼女にどうしたらいいかわからなくなる。オオカミなんて俺の気配を感じた瞬間にこの山から皆逃げた。できればもう少し水が欲しいと思ったけれど、誰かも分からない人間相手じゃものを頼むどころか、なにをどう話せばいいのかわからなかった。

「オオカミなんてでない」
「出るよ、血が好きだから。傷、見せて」
「……」

 面倒くさくなり、乾きはじめた血ぬれの服をぱりぱり捲ってランプに晒す。

「お腹に穴があいてるんだ。手当てしたってふさげやしないよ」

 ついでに被っていたローブを取り去って頭をあらわにした。見開かれた彼女の目が、腹の傷から頭のツノへとうつる。小さく息を呑んだのがわかった。スカートを握る手は震えている。彼女は口の中でゆっくりと「魔族」と呟いて、しばらく俺のツノを眺めたかと思えば、ランプを揺らしもと来た山道へと引き返していった。
 逃げたのはいい。でも人を呼ばれるのは少し困る。虫の息だろうと人間に俺を殺すことはできないけれど、その逆は簡単だ。彼女の親を殺すのは心苦しかった。けれど今日はもう移動できない。下手に動きまわって、奴らに俺の気配を感じとられるわけにはいかない。しかしどっちにしろ、彼女が村人を集め魔族狩りをはじめたらあたりは騒がしくなるだろう。もしかしたら山に火を放たれるかもしれない。弱ったいまの力でも、先手をうち村を焼くくらいなら容易いがどうしたものか。あの時は夢中でこの森へ逃げ込んだけれど、もう少し人里から離れた場所を選べばよかった。魔族が人を忌む以上に、人間は魔族が嫌いだ。
 そう考えたところで、急になにもかもがどうでもよくなった。人間どころか同族にすら忌み嫌われた結果がこのありさまだ。これ以上悪くなったってどうということもない。なるようになるだろうと、再び力を抜いて体力回復にいそしもうと思ったとき、予想よりも早くランプの明かりが戻ってきて嫌な汗がでた。二つの明かりが近づいてくる。ああ、嫌だな、あの子のことは殺したくない。けれど目の前で親を殺されたら、きっとあの子も死にたくなるだろう。そうしたら殺してやるしかないじゃないか。親は子を愛し、子は親を慕うものだというなら、なおさらだ。

「シーツしか、なくって」

 しかし戻ってきた彼女は、父親も母親も、ましてや村の人間もつれてはいなかった。代わりになにか布袋のようなものを抱えている。それから大きな水筒と、二つのランプ。一つは持ちきれず腰にぶら下げていた。

「包帯、つくる。ないよりはいいと思う」
「シーツで?」
「うん。うち、薬とかろくになくて」

 申し訳なさそうにそう言うと、彼女はカーゼを水で濡らし、おそるおそる俺の傷口に触れた。他人に腹を触られたことなんてないためおかしな心地になる。彼女は俺の傷がショックなのか事態に混乱しているのか、はたまた魔族が怖いのか、終始泣きそうな顔をしていた。

「魔族の手当てなんて、していいの?」
「……魔族にもいろいろいるって、お母さんが」
「お母さんが?」
「いい人間と悪い人間がいるように、魔族もそうだって」

 彼女は小さく呟くと、祈るようにスカートの上で両手を重ねあわせる。

「いい魔族なんでしょう?」
「……」
「ちがうの?」
「きみは……きみはいい人間?」

 俺の問いかけが予想もしないものだったのか、彼女は下がっていた眉根を上げて俺を見た。

「……え?」
「わからないでしょ?俺だって、わからないよ」

 自分が悪い魔族なのかそうでないのか、彼女がいい人間かそうでないのか、そんなことはわからないしどうでもいい気がした。しかし彼女の母親というのは、随分と珍しいことを言う。他種族に理解を示そうなんていう者は、この混乱の時代にいくらもいない。互いの命がかかれば仕方のないことだと思う。

「とにかく……自分の家の裏で、あなたが死んだらいやだから」

 彼女はそれだけ言って俯いた。ここが裏なら、ずいぶん森の奥に住んでいるのだと思った。村はずれもいいところだ。血だらけの体をいくら拭ってもきりがないと気付いたのか、彼女は布袋からシーツを取り出して裁断をはじめる。小さな手にはまめやしもやけができていて、苦労して育ったのかもしれないと思った。風もやんだ森の中に、布を裂く音だけが響く。二つのランプに囲まれて、そこだけ光る夜の森はなんだかとても暖かく感じた。暖炉の前にいるみたいだ。

「オオカミ、ほんとに来ないかな」
「来ないよ」

 オオカミも来ないし、村人も来ない。山に火をつけられることもないようだ。彼女の家族も殺さなくていい。ほっとしたら急に眠くなって、俺の腹から肩へと包帯を回している彼女の体に、もたれてしまった。力が入らない。あたたかかくて柔らかい。夜が明けても、彼女はまた会いにきてくれるだろうか。腹にたまる魔力とはべつのなにかが、冷えきった俺の体を少しずつあたためていた。


2015.5.22



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