晴れ歌


Living is not breathing but doing.



 猜疑心だとか、罪悪感だとか、そんなものが渦巻いて彼女の気持ちを素直に受け取ることができなかった。
 完全で、完璧な愛情が欲しかった。生まれて十年目にしてようやく出会い、六年間耐え偲んだなりの報いのようなものを欲していた。何より、笑顔の彼女をこの手に抱きたかった。彼女の口から告げられた他の男の存在に動揺し、子供のように駄々をこねる自分は人に愛される価値などないのではないかと、人を愛する資格などないのだろうと、また何もかもを諦めそうになった時、手を伸ばしてくれたのはやはり彼女だった。
 月の陰る一瞬の闇の中でも、彼女の目はしっかりと俺を写していたから、真っすぐに俺だけを見ていたから、俺はあの時真っ暗な視界の端に見つけた小さな光のことを思い出した。ゆらゆらと心許なく揺れながら、俺の元へやってきた光だ。伸ばした手に小さく触れ、俺がまだ生きていることを教えてくれた。生きていたいと思わせてくれた。すべての始まりにして、今なお続くあたたかな温度。





 裕福な村でないことはすぐにわかった。飾り気のない窓の木枠は彼女の家同様、古く軋んでいる。魔法などつかわずとも突破できそうだが、できる限り大事にせず目的を遂げたかった。でないと無駄な殺生をしかねない。ガラス窓の蝶番に指を置き、開錠の魔法を唱える。金属が小さく鳴り、招くように戸が開く。
 室内は真夜中でもわかるくらい塵一つなく整頓され、生気の感じられない静謐な空間のなか、冷たい水差しと空のコップだけが場違いに佇んでいた。壁にはいくつかの鮮やかな布飾りが掛けられている。少し見渡すだけで、部屋主の目覚めを長いあいだ心待ちにしている者が多くいるのだと伺えた。心がちりちりとざわめきだす。眠っているだけのこの男が、これほど世界に必要とされる理由とは何か。未だナマエの心を掴み続ける要因は何なのか。なぜ世の中はこうも不公平にできているのだろう。

「お前が一体どれほどの人間だっていうの」

 見たところ普通の男だ。意志の強そうな眉は眠っているというのにまっすぐ瞼に沿っており、こうなったことへの恐怖や後悔を感じさせない精悍さがあった。気に食わない。彼女に害なす者を一切のためらいなく殺すよう、ちゃんと念じたはずだ。俺が彼女にかけた守護の魔法とはそういうものだった。それをかいくぐり未だに息を続けるこの男に感じることなど、正直憎しみ以外にない。けれど──。

「目覚めたお前にナマエとの別れを突きつけるのも悪くないかもね」

 彼の顔の上へ手をかざし、そのままくびり殺したい気持ちを我慢して意識を集中させる。手のひらから生まれた風が同心円に広がって、シーツやローブを波立たせた。俺のいないところで発動するような間接的な呪いは本来そんなに強力ではない。解くのは簡単だ。
 うっすらと光を帯びた彼の体が小さく反って、水差しの水が踊るように机からこぼれ落ちる。光はしだいに小さくなり胸の真ん中に染み込んで、部屋には何事もなかったよう闇が戻った。
 元から寝ているだけに見えた男から、すうとやすらかな息が漏れる。ゆっくり開いた目が天井を写し、それからすぐに、俺をとらえた。動物のような男だ。

「……誰だ」
「せっかく助けてやったのに、その言い草はないんじゃない」

 礼儀のなっていない人間だと腹を立てようとも、彼には今の状況も俺が何者かもわからないのだから無駄である。何からどう説明してやろうか、それともこのまま何も言わず立ち去ろうかと考えていると、男は少しのなまりも感じさせない動作で背を起こし、俺を睨みつけた。生意気な目つきに、本当に殺してやろうかと思う。

「……夢か?」
「夢だと思う?」
「……いや、違う。夢ならずっと見てた」
「なんの夢? 誰の夢?」

 俺の問いに一度だけ眉を寄せ、数度まばたきをしてから、彼は驚くほど優しげな顔をした。シーツの上の拳が強く握られている。何を思っているかなんて、すぐにわかった。俺だからわかったのだと思う。同時に、言い知れぬ不安感が押し寄せて胃が焼かれるようだった。なんの力も持たない人間を前にして、こうも冷や汗が出るのはなぜだろう。俺の気が変われば、すぐにでも消し炭にしてやれるというのに。

「お前、魔族だな」
「……そうだよ。お前の意識をずっと奪ってた魔族だ。憎い?」
「どうして助けた」
「……」
「ナマエに頼まれたからか?」

 叫び出したい気持ちをすんでで堪え、口端を持ち上げる。ベッドに座ったまま真っ直ぐ俺を見上げている人間に、指の先を突きつけた。少し爪をひねれば、目を抉ることだってできる。その強気な目つきをやめろ。脅しても退かない男に全霊の殺意を向けながら、一歩足を出す。抑えきれない魔力が体中から漏れ、水差しがとうとう倒れて割れた。

「お前がナマエの何を知ってる」
「ナマエの何を知ってるかなんて知らねえ。けど、俺はお前のことを知ってる」
「……俺を知ってる?」
「お前とナマエが、ガキの頃からの仲だってことくらい、知ってんだよ」

 予想外の返答に、次の一手を導くことができない。俺の知らないこいつが、なぜ俺のことを知っているのか。見据えたまま黙っていると、彼は俺の指を躊躇なく握り「あっち!」と払いのけた。

「なんだこれ、魔法か?」
「……」
「そういやあの光に貫かれた時も熱かったわ」
「……どうして」
「……お前、ガキん頃、山に住んでたろ」
「は?」

 さっきまで眠っていた男にあれよあれよと先手をとられ、人間と魔族の間にある圧倒的な力の差をはぎとられていくのが恐ろしい。同年代の男と対等な立場で話すことなどそうないため、どんな風に威圧すればいいかわからなくなってしまう。振り払われた手を再び向ける気にもなれなかった。

「一度、後つけた。あいつがいきなり元気になって、何があったか気になって」
「元気に?」
「そしたら角の生えたやつと一緒になってなんか楽しげにしてたから、めちゃくちゃ焦って村に駆け戻った」

 彼はそう言って床の水差しを拾い上げ、底に残ったわずかな水をコップに注いだ。夜目が効くのだろうか、陶器の欠片が水に浮いていないことをたしかめてから、うまそうに飲み干す。

「それで、村のやつらに言ったの?」
「……言わねえよ」
「なんで」
「言えねえだろ。さっきも言ったけど……あいつ楽しそうにしてたから」

 だからなんだというのだ。幼い子どもが異種族との交流にどんな理解を示すというのか。笑っていたならなおさらだ。たぶらかされ付け入られ、自分にまで危害が及ぶと怯えるのが普通だ。

「あいつ、死のうとしてたんだよ」

 訝しむ俺に視線を合わせずに、彼は静かに言った。割れた陶器の縁を親指でなぞりながら、つい昨日のことを思い出すように眉間を強張らせている。俺は言葉の意味が理解できずに、ただ阿呆のように立ち尽くしていた。
 俺に笑いかける彼女の顔に曇りはなかった。さみしげな様子はときおり伺えたが、彼女の暮らしの貧しさや侘しさが心身に染み付いたがゆえの影なのだろうと、だから彼女に苦労のない生活を与えることで、いつかそれを晴らしてやろうと思っていたのだ。俺の知る彼女は幻だったのだろうか。慎ましくも幸せに生きる娘なのだと思っていた。彼女から伝わる、彼女が受けてきた愛情のあたたかみが俺には尊く思えた。死の淵を垣間見た俺にとって、彼女は生きることそのものだったのだ。その彼女が、どうして──。

「お前にはずっと礼を言いたかった。けどこんなことになって眠らされたの、すげえ腹立つから、言わねえ」

 崩れそうになる足元の先で、彼が何かを言っている。

「何年経った?」

 鈍る思考をさえぎるよう尋ねられ、ぼんやり「二年」と答える。

「二年か……もっと長く感じるな。あいつの声ずっと聞こえてたからな」
「意識があった……?」
「あるわけねえだろ寝てたんだから。でも夢を見てたよ。あいつ、母親みたいに俺のこと呼ぶのな」
「ははおや」
「……オイ、大丈夫かよ。お前がトチ狂って暴れたところで俺は責任とれねえからな」

 俺とは反対に、地に足のついた態度で言葉を発している彼に、なぜだか自分の父親の姿が重なる。失望されたことはあっても叱られた思い出はない。それでも何かしらの畏敬を父には感じていた。俺の防衛本能が日に日に増した要因でもある。

「お前はさっきから、なんでそんな、偉そうに」
「当たりめーだろ! 怒ってんだよ! 呪いだかなんだか知らねえけど、家族やナマエを不安にさせたことは許せねえから」
「……許せないのはこっちの方だ」
「あ?」
「俺のものに手を出しといて、よくも」
「よくもじゃねえよ。お前がどっか行っちまったんじゃねえか。あいつお前のこと忘れてるし、お前ももう忘れたんだと思って」
「うるさい! 忘れるわけないだろ、俺にも俺の事情があったんだよ! 」
「知るかよ! そんで、今あいつどうしてんだ」

 何から何まで想定外だ。怯え戸惑うとばかり思っていた人間の青年に、なぜか俺が叱られている。こんな、感情をぶつけ合う喧嘩のようなことは兄弟とだってしたことがない。狼狽える俺にかまわず声を張るこの男は、果たして普通の人間なのか。これが一般平均だというなら人間というのは魔族よりよっぽど図太い精神をしている。

「ナマエは俺の城にいる。もうここへは戻らないよ」
「……」

 形勢を立て直そうと、なんとか冷たい声でそう告げた。何かを言いかけた彼の目が、ふいに俺の背後へ移る。

「ハジメ……?」

 部屋のドアが薄く開き、二人の人間がこちらを覗いていた。スコップを握りしめ立ち竦む男の背後で、女が小さく問う。口元に両手を当て、見開いた目からはつぎつぎと涙が溢れ落ちていた。それを見て、俺は無性にナマエに会いたくなった。この不公平な世界で、俺のために泣いてくれる女一人を欲することは間違いだろうか。優しいものが欲しいだけだ。


2016.6.5



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