※モブ男あり
「こんばんは先生。その人彼氏?」 虚をつかれる、とはこういうことを言うのだと思う。 会うはずのない人たちが、いるはずのない場所で、交わすはずのない会話をはじめようとしていた。住み始めて一年半が経つコンクリート建て中層アパートの前で、私は静かに息を呑んだ。私の隣に男が一人。私の前にも男が一人。一人は同い年で、もう一人は五歳も年下だ。そして一人は過去、一人は未来を示している。 未来を示す男の子は、ポケットに手を入れたまま私に向かってそう聞いた。 「お、及川くん、こんばんは……!ちがいますよ!」 教え子にプライベートを問われ、まともに答えるのもおかしいかと思ったが、そんな一般常識を気にしている余裕はない。私の返答に「え、俺彼氏じゃないの?」と茶々を入れた隣の男の空気の読めなさに思わず声が裏返る。ニコニコと、学内新聞の一面を飾った時と同じような爽やかな笑みを保っている及川くんの、額のあたりに不穏な影が差した気がした。 「彼氏じゃないでしょ!なに言ってるの!?」 「冗談だよバカ。別れた男は元カレっつーんだよな」 誰か、この男の口を塞いでくれないだろうか。次から次へと言わなくていいことばかり口走って、いくら気心の知れた仲といえデリカシーのなさに嫌になる。そもそも、この男と二人きりで会うのなんて高校を卒業して以来のことだというのに。なぜよりにもよってこのタイミングでこのメンバーなのか。彼とは、何も特別な関係というわけではない。ありふれた、ありがちな、いわゆる一つの、昔の男というやつだった。 「……先生。来週提出の成績証明書、間違って持って帰ったでしょ。俺の分」 「そ……そうだったっけ!ごめんね、わざわざこんなところまで来させちゃって!」 私は「わざわざ」というところを強調して、彼がここへ来ることの非日常性をさりげなく示してみたが、返って不自然だったかもしれない。隣の男はにやにやと笑いながら私を見ていた。昔から勘だけはいいのだ。 「生徒?」 「うん、私の受け持ってる生徒で……バ、バレーがすごく上手なの!」 「へー、なんかすごいかっこいいね」 不躾なくらいあけすけに感想を告げた彼に向けて、及川くんは笑みを崩さずにお礼を言う。それはそれで不自然なような気がしたが、及川くんくらいの格好良さになると日常的にこういうことがあるのかもしれない。まるで芸能人のようにそつのない対応だ。 「お前生徒に手出すなよ」 「だ、出すわけないでしょ」 「どうだかなー、名前流されやすいからなー」 「……!」 わざとか無神経か、埋められた地雷を入念に踏み抜いていく彼は、その場の空気を紛争地帯のごとく荒らし終えると、素知らぬ顔をして 「じゃあまたなー」と手を振った。わざわざ「また」なんて言葉を使うあたり、やはり確信犯なのかもしれない。 残された私と及川くんは互いに負傷しているようだった。私は足下の白線を十五秒ほど眺めてから、及川くんに目を向ける。彼は私を見ていなかった。顔を上げて、漫然と曲がり角の防犯ミラーらへんを見つめている。 「……とってくるね、成績証明書」 「……」 「ごめん、お茶くらい出すから」 「いらない」 短くそれだけ言って、彼は踵を返した。慌てて肘の後ろを掴む。 「及川くん待って。あのね、」 「別にいいよ。元カレと部屋でなにしてたかなんて聞かないから」 「ちがう、本当になにも……ていうか、部屋入れてないし!」 「だからいいって。俺たちまだ正式に付き合ってないんでしょ?言い訳する必要ないよ」 「……」 及川くんが苛立っているのはわかったし、苛立ってもしかたない展開だとは思う。けれど違うとわかっていて「彼氏?」なんて聞く及川くんだって大概だ。 「この前、友達数人とうちで宅飲みしてね……その時あの人がICカード忘れてっちゃったから、取りに来ただけで」 「忘れ物?なにそれベタすぎ」 「本当だってば!」 「わかってるよ、でもそんなんわざと忘れたに決まってんじゃん!」 「そんな、そんな無意味なことしないってば」 「無意味?なにが?俺が来なきゃ部屋入れてたでしょ。そしたらもうわかんないよね。流されるの、得意だもんねえ?」 未だに目を合わせてくれない及川くんが嘲るようにそう言ったので悲しくなった。腕をゆっくりと振り払われ、彼との接点がなくなる。立場も年齢も性別も身長もかけ離れた二人のどちらかが向き合うことを拒否すれば、こんなにも簡単に心が宙に浮いてしまうのだと実感した。私が普段やっていることはこういうことなのだと思った。 「ガキだからってバカにしないでよ」 「……してない」 「してる」 「バカになんてしてないよ。でもごめんね。不安にさせたいわけじゃないの」 「……」 「来て」 小さく言って、アパートの階段に足を乗せる。少し迷ったようだったが、彼はおとなしく後ろを付いて来た。鍵を開け部屋へ入る。明かりのスイッチを二つ三つと点け、エアコンの電源を入れ、簡易ポットの保温ボタンを押した。すぐさま部屋に上がると思った及川くんは、玄関で立ち止まったまま大きく溜め息をつくと、へなへなとその場に座り込んだ。 「わかってるよ。俺が一人で勝手に拗ねてるだけだって」 「及川くん」 「何あれ。すっごい腹立つ」 大きな背中を小さく丸め、手のひらで顔を覆う彼に心臓がおかしな音を立てた。罪悪感とか、焦燥感とか、愛情とか、劣情とか、そういうものが煮詰まったせいだ。及川くんは狭い玄関で体をもてあますように抱え込み、肩を強ばらせる。柔らかな癖っ毛につつまれたつむじがなんだかとても寂しそうに見えた。 「付き合ってるって言いたい。みんなに見せびらかしたい。俺の彼女だって」 「……うん」 「わかってる。卒業してからだってそんなことおおっぴらに言ったりしないって。先生が悪く言われるの嫌だし」 「うん、ありがとう」 「先生俺のこと見て。触って」 じっと、ドアの方を見つめながらそう言った及川くんの背後に膝をつき、うなじの下あたりに頬を寄せた。予想よりも穏やかに打っている、及川くんの心臓の音が聞こえてきて目を細める。穏やかというよりも消え入りそうだ。広い背中の真ん中で、彼の鼓動が寂しげに揺れている。私はたまらない気持ちになって、つむじをかき回すように髪の毛を撫でた。 「俺が欲しいものって……」 「……?」 自分の膝小僧にむかって呟いた彼の声はやはり消えそうに小さい。顔色もあまり良くなかった。心配になって、後ろからおでこに手を回す。熱はないようだけれどもしかしたら体調が良くないのかもしれない。 「及川くん?」 「んーんなんでもない」 触ってと言ったわりに殻に閉じこもるばかりの及川くんは、置き去りにされたかん黙の子どものようにやんわりと目を閉じている。かっこいい顔に、愛される性格、恵まれた体格に背の高さ。スポーツができて、頭の回転だって早い。けれど、彼が本当に欲しいのはそんなものではないのかもしれない。いや、それらを持っているからこそ、何か本当に欲しいものが手に入らない時の苦しみから、目をそらせないのかもしれない。 彼が頑張っていた部活の成績を私は知らない。けれどなんにせよ、引退後のぽっかりとした不在感を未だ引きずっている素振りはところどころ見受けられた。燃え尽き症候群のようなものだろうか。大学に入ればまた忙しい日々が始まる。長い人生を考えれば、今の時間なんてほんのわずかなモラトリアムにすぎない。バレーを続けるにしろそうでないにしろ、新しい環境に飛び込めばめまぐるしい変化をその身いっぱいに浴びて、昔のことを振り返る余裕もないだろう。そうなってしまえば私は、忘れられる側に含まれるのだ。彼が今夢中になっている独占欲も優越感も、スリルもインモラルも、今だけの特別なものだということくらいわかっていた。 「及川くん、こっちおいで」 私はテーブルの上の書類を片しながら、なるべく優しくそう言った。返ってこない反応に振り返り見ると、及川くんはかわいくない鳥のヒナみたいな顔をして私を見上げていた。思わずふきだす。 「なんて顔してんの」 「……先生が保育園の先生みたいな声出すから」 「私は高校の先生です」 叱咤と激励と、少しの愉悦を込めてそう言うと、彼は「ますますガキになった気分」と言って立ち上がった。こんなに大きい子どもがいてたまるか。私のことをどうとでもできる腕力を持ち合わせているのだから、これまで通り、この空間で優位なのは彼のはずなのに。元気すぎても困りものだが、元気がなければないで困ってしまう。ローテーブルの脇に座り込んだ及川くんの手に、自分の手のひらを重ね小さくさすった。私の手をぎゅっと握り返し、彼は言う。 「お茶飲んで帰る」 そうしてくれるとありがたいけれど、私にとってだって、それは随分つらいことなのだ。 2014.12.9 |