花とパラフィン





 昔の男。昔の女。そんなものにこだわるのは馬鹿らしいと思っていたし、今でも思っている。
 すでに終わったことを引っ張りだしてぐだぐだぐだぐだ、生産性のかけらもないし、聞かれたところでなんと答えるのが正解かもわからない。遊びだったと言えば軽いと怒られ、本気だったと言えば無神経と怒られる。軽くて無神経なことは俺だって認めるところだけれど、聞く方だってそんな俺が好きだから付き合ってるんだろうし、嫉妬もするんだろう。まったく矛盾してるし、面倒臭い。過去を蒸し返したところで誰も幸せになんてなれないってのに、いったいぜんたいどういう了見だ。

 と、まあその理屈に今だって間違いはないと思う。しかしだ。自分の価値観が覆される瞬間というのは、ある。急にさっと視界が開けるように、今までわからなかった人らの気持ちがわかってしまうのだ。人はこういう経験を繰り返して優しくなっていくんだろうな、なんて達観したふりをしながら天を仰いだ。

 かといってべつに、彼女に処女性を求めているわけではない。
 年齢を考えれば経験くらいあってくれてかまわないし、正直それにありついている自分もいる。気持ちがいいことに裏付けがあるとしても、気持ちよくないよりは良いというのが本音だ。セックスの仕方を互いに知っているに越したことはない。とは言いつつも、それとこれとは別だとも思う。
 彼女の交友関係が、恋愛遍歴が、人生経験が、それらの自分との差異が、胸のあたりに小骨のように引っかかってしょうがない。年下という圧倒的ハンデがそうさせるのか、もしくは本気度の違いなのか。後者だとしたら、ずいぶんと面倒臭いことになってしまったという後悔もあった。恋愛というのはどうやら俺が思っていたほど気楽なものではないらしい。楽しくて苦しくて、甘くて辛いものなのだ。なんだよ、そんなの初めて知ったよ。

「はーあ〜……」
「どーしたのー?及川クン」

 眉を下げため息をつく俺に、クラスメイトの女子が楽し気に話しかける。俺の何かが上手くいってないということを話のタネとして面白がるクラスメイトは俺をおもちゃにしすぎだと思うけれど、こうしていれば必ず構われると知っていてわざと大きなため息なんてついている俺も大概なので大目にみた。

「なんかねー、恋のお悩みつきないのよ及川さん」
「及川クンが恋の悩みとかウケるー。え、なにいま彼女だれだっけ?うちの学校?」
「違うよ。他校。他校っていうか歳上でさー。社会人」
「社会人!?へえー及川クンってやっぱ上にもモテるんだあ」
「モテるモテる。老若男女にモテるよ俺。死角なし」
「でもうまくいってないからため息ついてんでしょー?遊ばれてんじゃないの?」
「……まあそうだけど。いや、遊ばれてはないけど!」

 ムキになって体ごとクラスメイトの方へ椅子を傾けると、彼女はからかうような目に少しだけ色を乗せて俺を見た。

「ほんとー?もし捨てられたら私と付き合う?」
「付き合わないよ。捨てられないし。でもユカ子ちゃんのそういう面倒見の良さかわいいと思うけどね」
「適当なこと言ってムカつくー。でもイケメンだから許す」

 ほら、クラスの女子ならこんなにも俺は優位に立てるのだ。文句を言いつつも頬を赤くして席を立った彼女はきっと付き合えば従順に俺の言うことを聞いてくれ、俺を好きで好きでたまらなくなり、元カノにヤキモチを妬いたりして俺を困らせるのだろう。それも悪くない。けれど「悪くない」以上を知ってしまった俺には悪くないけど物足りない、嫌いじゃないけど最高じゃない、そんな恋愛になってしまうのだろうと思った。くらくらするような幸福感や、ぞくりとするような支配欲を、いつの間にか麻薬のように欲してしまっている。

「はあ〜ー」
「及川うるせー惚気てんな」

 男子は大体にして厳しめだ。それでもまあ、構ってくれるだけいいと思う。名前なんて俺が授業中いくらじっと見つめていても、誤魔化すように他の生徒をあてるか、板書で背を向けるか、教科書と熱心に見つめあうかだ。他クラスの山やんや福本らとは平気でへらへら絡むくせに、俺とは目も合わせてくれない。最初のうちは彼女の公私の切り替えにかわいらしさや優越感すら感じていたというのに、つくづく俺は余裕をなくしているようだ。基本的に、構われたがりで寂しがりやな自覚はある。



「先生ー、ここわかりませーん」

 公私を混同できないというのなら、教師と生徒の正しい関係として交流する他にない。授業の後、職員室へと廊下を曲がった名前の背後から教科書をぺらつかせると、彼女は少しだけ目を見開いたあと口元をきゅっと引き締めた。

「及川くん……この前の小テスト酷かったよ」
「だって俺先生のことは愛してるけど古典のことは愛せそうにないんだもん」

 腕を組んで半ば本気でそう言うと、彼女は馬鹿なこと言ってんじゃない、という顔で俺を見て引き締めたはずの唇を曖昧な方向に曲げた。
 教科書を覗き込みとっさに筆記用具を取り出そうとした名前が、胸に抱えていたファイルを落としそうになったため「貸して」と言って持ってやる。熱心に漢文の読み方を解説する先生の伏せられた睫毛を観察しながら、さりげなく、書類を一枚そこへ挟んだ。

「──つまり、ここは意味と語順が逆になっていくわけだね。……わかった?」
「わかったわかった。ばっちり」

 ふむふむつまりええと、俺はどのページを開いてたんだっけか。


2014.12.9



- ナノ -