花とパラフィン





 ふわふわと、くすぐったい感触に身をよじり目を覚ます。見慣れた枕カバーの上に乗っていたのは見慣れない毛玉のようなもので、なんだろうこれはと眺めているうちに自分の体調があまりよくないことに気付いた。頭が痛い。目が眩む。くすぐったい。なんなんだろうこれ。

「……ん……ん?」

 わけのわからなさに、あやうく逆切れしかけたところで、大変なことに気付く。寝起きの低血圧を吹っ飛ばすほどの衝撃が私の脳みそを襲った。これ毛玉じゃない。頭だ。しかもあれだ。この頭、及川くんのだ。

 重たいまぶたを精一杯開き間近に迫るそれを見つめる。この色とこの感触、慣れたとまでは言わないが最近私の中で赤丸急上昇中のこの癖っ毛は、間違いなく及川くんのものだった。よく見れば穏やかな呼吸にあわせ規則的に上下している。布団に包まっているためうなじまでしか見えないが、大きくそびえる羽布団越しに彼らしい体格の良さがうかがえた。横向きに寝ているというのに私の分のスペースはほとんど残されていない。どおりで寝苦しいわけだ。……いや、寝苦しいのは二日酔いのせいだろうか。
 そう、私は昨夜結構な量のお酒を飲んでいたのだ。飲んだところまでは覚えている。しかしその後のこととなるとさっぱり思い出せない。

 社会に出て一年、近況報告もかねて地元の仲間と週末の居酒屋に来ていた私は、近頃自分の身に降りかかっている様々な葛藤を誰かに吐き出したくて、生徒という部分はさすがに伏せつつもぐだぐだとクダを巻いていたのだ。今日も家に来るかもしれない。でも上げるわけにはいかない。でもでも待たせるのもどうだろう。さすがに無視はできないよ。そんなようなことを延々と言い続ける私にうんざりしたのか、友人たちは九十分の飲み放題の後、薄情にも私をタクシーへと詰め込んだ。「ほら待たせたらかわいそうだよ」「いいじゃんいいじゃん、イケメンなんでしょ」適当な言葉に押され、シートに滑り込んだところまではかろうじて記憶がある。問題はその後だ。気持ちいいくらい何も覚えていない。しかし過程はどうあれ、結果的に一つのベッドで寝ているのだから私の罪は確定したようなものだった。絶望。

「ちょっと、さむいよお……」

 布団に隙間があいたことにより体が冷えたのか、彼はもぞもぞと丸まって女子高生のような声を出した。反射的に「ごめん」と謝り布団を抜け出す。そのまま洗面所に逃げ込んで鏡を見た。ひどい顔だが化粧はちゃんと落としている。タイツも履いていない。しかしそれ以外は特別乱れていなかった。悶々としたまま軽く洗面を済ませ、部屋に戻る。及川くんはベッドの上で猫背をつくり、寝起きの顔で後頭部を撫で付けていた。いくら撫で付けても戻ってくる後ろ頭はいつものことだ。彼も服を着ている。と思ったら、下はパンツだけだった。やっぱり、してしまったのだろうか。

「んうーおはよぉ」
「おはよう……」
「調子どう?名前」
「あ、うん。ちょっと、だるい」
「だろおねえ」

 屈託なく笑う及川くんに「何も覚えてない」なんてことを言えるわけもなく。「その"だろうね"はどういう意味ですか」なんてことも聞けやしない。とりあえずシャワーを浴びたいけれど、その前に少しでも状況を把握しておきたい私は、なんと言ったら良いかわからずに息を呑んだ。そしてなぜだか「大丈夫?」と尋ねてしまう。

「俺は大丈夫だよ。大丈夫じゃないのは名前ちゃんでしょ」
「そ……そうだよね。酔っぱらってて、鬱陶しかったでしょ?ごめんね。いろいろ迷惑かけちゃって……」
「本当だよ。反省してる?」
「……はい」

 ふーん、と言って、彼は私を薄く睨んだ。これじゃどっちが教師だかわかりゃしない。もう一度「ほんとにごめん」と謝ると、彼は下を向いて手のひらで顔を擦った。怒っているだろうか。傷つけてしまったかもしれない。お酒に飲まれていいように振り回すなんて、大人の汚い部分で及川くんの想いを踏みにじってしまった。

「くっ……」
「及川くん……」
「う…………ふ、ふふっ……!」
「及川くん……?」
「うっはははっ、困っちゃってかわいー名前ちゃん!……覚えてないんでしょ?」
「……え」
「あんだけ酔ってたらね、覚えてないよね、ほとんど。俺としたコト」

 彼は笑いながら膝立ちで私に近づくと、さっきまでの無邪気さはどこへやら、なんだかいやらしい悪魔のような顔で私の腕を引っ張り、見下ろしてきた。

「お、おぼえ、覚えて」
「るの?あんなことこんなこと?」
「………………ません」
「うーん、だよねえ?」
「ご、ごめ、ごめん。その、あんなことって、例えば……」
「例えば、かわいくおねだりする名前ちゃんだとか、俺にまたがる名前ちゃんだとか?」
「あ、ああうあ、う、うそ、うそだ」
「ぜんぜん離してくれないんだもんなー。卒業まで何もしないって、名前、あんなになるなら無理に溜め込まない方がいいよ?女盛りなんだから」
「や、やだ……うそうそ、うそだあ!」
「うん、嘘」

 あまりのことに全身の力が抜けて、顔だけが爆発しそうに充血していた。恥ずかしさで泣きそうだ。あんなになるって、私はそんなに欲求不満だったんだろうか?自分から禁欲させといて、当の私の深層心理は彼を淫らに求めていたと?嘘、嘘だ、そんなことあるわけ……あえ?嘘?

「……へ」
「……ぶっは!あっはははー!嘘だよ。うふ、っふう、あー……おもしろい」

 何がなんだかさっぱりわからなかった。でも、盛大にからかわれてることだけはわかる。放心状態で見上げるばかりの私をぎゅうぎゅうと抱きしめると、及川くんはそのままベッドに倒れ込み脚を絡ませてきた。

「なんもしてないよ俺。えらくない?」
「…………ほ、ほんとに?」
「本当だよ。あんな我慢したのに疑われるとか心外だからね」
「だってなにが本当か……」
「ごめんごめん、だってむかつくじゃん。意地悪させてよ」
「……」
「なあにあれ、無防備に一人で爆睡して。俺の理性があとちょっと脆かったら三回犯してたよ?」
「……すみません」
「なんか甘えてくるしさあ。これはほんとね」
「うそ……」
「ほんと」

 どうやら何もしていないらしいことがわかり、ほっとしたのもつかの間、今度は別の罪悪感が襲いかかる。こんな健康な男子高校生に気を使わせて、我慢をさせて、あげく自分はぐーすか寝ていたなんて申し訳ないにもほどがある。

「及川くん。……ありがとう。約束守ってくれて」
「うん。俺先生のこと好きだからね」
「……」
「さすがに我慢できなくなってトイレで二回抜いたけど」
「……」
「おかげで寝不足。あ、でももうガッコ行かなきゃ」
「学校?今日土曜日だよ?」
「指導とかいろいろあんの。遅れると岩ちゃんに怒られるからさー」

 部活を引退した後も、強豪校の主将や副主将というのは指導要員として時おり駆り出されるのだそうだ。若いとはいえ、寝不足で運動をさせてしまうなんてますます申し訳ない。せめて朝食くらいは作ってあげようと起き上がろうとしたが、がっちりと抱え込まれていて身動きがとれなかった。

「まだちょっと時間ある」
「朝ご飯ちゃんと食べていきなよ。いま作るから」
「うーんそれよりさ……」

 彼は言いづらそうに一度言葉を区切ると、甘えるように体を擦りつけ、言葉の代わりにあることを示した。
 一瞬で理解した私は顔が熱くなるのを感じながらも、様々な負い目からなんの反論もできない。一晩我慢をさせてしまった。そして今は朝だ。朝の高校生がどれくらい元気かなんて知らなかったが、嫌というほど太ももで理解してしまっている。

「手でシて。せんせ」

 二日酔いの頭と彼のしたたかな譲歩に飲まれて、従うほかにない私をどうか責めないでほしい。
 手のひらはじっとりと汗ばんでいる。


2014.11.20



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