国語科教科室の空気は、いつも少しだけけぶっている。きっと角部屋という窓の多さが、他の教室よりもたくさんの光を取り入れるためだろう。飴色に日焼けした薄いカーテンを通過した陽光が、空中に舞う埃をやんわりと照らし出していた。 『名前ちゃんお腹すいた〜』 内容のないポップアップがスマートフォンの上部に降りてきて溜め息をついた。送り主にこの部屋への立ち入り禁止を言い渡してから一週間が経つ。彼に体を許した日から、ちょうどひと月だった。無様に泣いてしまったあの日、チャーハンと引き換えになんとか守った二度目の貞操をこんなところで再び奪われたらたまらない。「卒業したら付き合おうよ」と無鉄砲な提案をした男子高校生に、「うんって言ったらまた襲いかかってくるんでしょ」と聞けば「うん」と頷かれ眩暈がした。なんとかかんとかいなし、騙し、宥めすかし、落ち着いたところがチャーハンだったのだから意味がわからない。十八歳の男子高校生というのは食欲と性欲の区別もはっきりしないような頭で日々を生きているのだろうか。実家の猫よりひどいじゃないか。 『お腹すいて死ぬ』 ひたすら空腹を訴え続けるポップアップについ「授業中でしょ。携帯しまいなさい」とつっこみを入れたくなるが、かえって喜ばせてしまいそうだったのでスマートフォンを裏返した。校内での私の安寧はひとまず保たれているわけだが、入るなと言ったらおとなしくそれを守る素直さは少し意外であり、かわいらしくもあった。彼の年相応な子どもらしさと、はっとするほど達観したような態度とのギャップに、私はすっかり囚われてしまっている。あとひと月と少し。それは私にとって、彼にとって、長いのだろうか、短いのだろうか。 終業のチャイムが鳴り、うーんと固まった背筋を伸ばす。安っぽい回転椅子がぎしぎしと鳴り、静かだった校内に生徒の話し声や集団で椅子を引く小さな地鳴りがこだまし始めた。私の伸びにつられたのか、向かいに座っていた現国の西岡先生も姿勢をくずしあくびをした。のどかだ。国語科の先生は穏やかな方が多い。そんな昼下がりの緩んだ空気を打ち破ったのは、私のスマートフォンのバイブレーションだった。こんな昼間に誰だろう。慌てて画面を裏返す。『着信:及川徹』。机をひっくり返したい気持ちをなんとか抑え、私は大急ぎで教室を出た。 『先生お腹すいたって言ってんじゃん〜!』 「お昼でしょ!?お弁当食べれば!?」 『名前ちゃんのチャーハンが食べたい』 何を甘えているんだろうかこいつは。私はあなたのお母さんではありません。教師です。それなのに付き合う予定があるらしいです。なんだろう、泣きたい。 「ていうか名前出さないで!先生もだめ!」 『空き教室でかけてるから平気』 「電話も禁止!」 『……』 彼は何も言わなかったが、嫌というほど不満の伝わってくる沈黙だった。教科室立ち入り禁止。人の見ているところでの接触禁止。自宅に来るのももちろん禁止。そのうえ電話も禁止したら確かにコミニュケーションは不可能である。 「……家いる時はかけていいから」 『…………』 「か、帰り道とかでもいいよ」 『……先生さあ』 「はい?」 『俺の事この世で一番嫌ってない?なんか』 「そ、んなこと……ないよ?」 『五組の奴らとはいちゃついてんじゃん。福本だっけ?』 「いちゃつくわけないでしょ。べつに嫌ってないよ及川くんのことだって」 『ほーん、じゃあ好き?』 「す、好きだよ?」 『この世で一番?』 「……八番目くらい?」 『なにそれリアル!』 ぶーぶーと文句を言う及川くんの小学生みたいな顔が脳裏に浮かび、ついつい笑みがもれた。このでっかい子どもはどうやらお腹が減ると人恋しくなる性質らしい。やっぱり猫だ。成猫前の野良猫だ。 「早く食べないと昼休み終わっちゃうよ」 『今日家行くから』 「……は!だめ!今日飲み会だし」 『……飲み会?なに飲み?』 「え、地元」 『行く』 「だから遅いって!」 『大丈夫俺も部活寄ってくから』 「ていうかそもそも……!」 家には来ない約束でしょ!と言おうとしたところで通話が切れた。 距離感って難しい。最近ちょっと拒絶しすぎただろうか。高校生の恋愛はきっと日にち単位でするものなのだ。月や季節で区切る大人とは息の浅さが違う。待ては一週間が限界か。どうやらひと月というものは私にとってはそれなりに短く、彼にとってはたまらなく長いようだった。 「酔ってないですけど」 そう言った彼女の目は完全にすわっており、誰の目から見てもダウン寸前の有様だった。 「酔ってんじゃん。なにすんなり家に入れてくれちゃってんの」 押しかけたのは自分だけれど、久しぶりに顔を出した部活帰りに彼女のアパートまで足をのばし、さて二時間は待つだろうかと腹を括ったところでふらふらと現れた彼女は、時間のわりに深酒の様子がうかがえた。短時間でどれだけ飲んだのだろう。もしかして酒癖が悪いのだろうか。帰されたのか、それとも俺のために帰ってきてくれたのか。 「なんか今日の顔、いつもより子供っぽいね」 「わたしまだそんなとしじゃないし」 そりゃ二十三歳といったら遊び盛りの年齢だろう。酒も飲めるし就職して金も増える。俺みたいな高校生と比べたら楽しいことなんて山ほどあるはずだ。だからこそ学校にいる時くらい彼女を身近に感じていたいのに、それすら許してくれない。いろいろと限界だった。我慢させる恋愛ばかりしてきた俺は、我慢することに耐性がない。 「家には行かない」というルールを忘れたのか諦めたのか意識が朦朧としているのか、とくに止められることもなく一緒に玄関を通過した俺に、彼女はふらふらとスリッパを勧めそのまましゃがみこんだ。やはりこれは相当だ。 「名前ちゃん、水飲んできなよ」 「うん……」 「立てる?」 「うん……」 目を閉じたまま子供のように頷いた彼女は、よいしょと足に力を入れて正面の俺づたいに立ち上がった。やんわりとジャージを掴む両手に、心臓が弾けそうになる。優位に立ちたい、甘えたい、守ってやりたいと雌雄に絡んだ欲望を抱くことはあっても、純粋に面倒をみてやりたいという庇護欲をかき立てられるのは初めてだった。歳上なんだから教師なんだからといつも気を張っている彼女が、心も体も無防備にして俺の前にいるのはあの日以来のことだ。このままかき抱いてベッドへともつれ込みたいと思う自分と、それをしてしまうのはもったいないと思う自分とがせめぎあっていた。何もいやらしいことをするためだけに彼女といるわけではない、という自分への意地もあった。 「おいかわくん……」 「…………ん?」 「またせた?」 「……そんなことないよ」 「そっか」 「……名前、俺のために早く帰ってきてくれたの?」 「……おいかえそうと、おもって」 「……」 「でもむり。むりだった」 彼女はそう言ってとろとろと俺の胸に顔を寄せた。無理なのはこっちだ。みなぎる両腕の腕力を最小限までなんとかしぼり、そっと抱きしめる。欲求を体内に飲み込んでいるせいかホルモンバランスやらなんやらが混乱しているようでくらくらと目眩がした。彼女の耳の後ろにくんくんと鼻を埋めながら、叫びだしたい気持ちをなんとか抑える。化粧品とアルコールと、女の子の匂いがした。 「きょう……」 「ん?」 「このまま寝るから、おいかわくん好きにかえって」 信用しきった彼女の言葉に困ってしまった俺は、とりあえず「わかった」と頷いて彼女を解放した。洗面所で無意識にまかせ化粧を落としている名前を、ダイニングの椅子からぼんやりと眺める。名前はタイツを脱ぎ捨てベッドへダイブすると、抱き枕のように羽布団を抱え込みやすらかな息を立てはじめた。裏返った前髪が幼さをかきたてている。覆い被さって、いろいろなことをしてしまいたい。酔う方が悪い。寝る方が悪い。そう思っているのに体が動かない。俺はいつからこんなにヘタレになったんだろう。でも不思議と悪い気分ではなかった。 ポケットの中でスマホが短く震えたのを合図に、ベッドサイドまで近寄り、かがみ込む。きっと岩ちゃんからのラインだ。俺が今日ここへ来ることを知っている彼は、元主将が私用にかまけ、明日の部活のコーチングに遅れることを懸念しているのだ。でも幸いだか残念だか、彼が思っているようなことにはなりそうにない。 一つ溜め息をついて、彼女の無防備なおでこにキスをした。 2014.11.16 |