立場だなんだと言ったって、新任の教師なんて高三の俺とは五つしか歳が離れていない。 社会的に見ればきっとまだひよっこもいいところなのに、ずっと前から大人やってます、なんて顔で俺をガキ扱いするから隙をついてやりたかった。彼女がこの学校に就任した日から、俺はずっとそう思っている。早く終わらないかとあくびを噛み殺しもせずに突っ立っていた三年最初の始業式で、教育実習生のような初々しい黒スーツにわずかな誇りを添えるクリーム色のカーディガンを着て、体育館のステージへと登っていく彼女を見た時から俺は彼女が気になってしょうがないのだ。若くて清楚な新任の女教師に、色めき立つ男子生徒のうちの一人になるのは癪で、俺はひっこんだあくびを喉の奥から引っ張り出して興味のないふりをしていたが、彼女の受け持つ古文の授業に自分のクラスが該当すると知った時ばかりは鼻の下が伸びていたと思う。 しかしそれからぐるりと季節が半周するまで、これといったちょっかいもかけられず。万が一悪い噂が立ち、部活で問題にされたらと今まで指をくわえて見ていたが、もうそれも気にする立場ではない。とにかく男子高校生の欲求不満を助長しながら校内の風紀を緩やかに乱すこの女に、誰かが手を出す前に自分が、というよくわからない使命感があった。卒業間近の三学期半ば、暇を持て余す健康な肉体が溜めに溜めた欲望を彼女にぶつけるのは必然のことだった。 「ん……名前ちゃん」 深く短いうたた寝から目が覚めて、彼女の狭いベッドで伸びをした。柔らかい薄掛けが素肌に心地いいが、左脚が半分落っこちていたようでぴりぴりと痺れている。逆立った後ろ頭を撫でつけながら起き上がり、シーツの上にあぐらをかくと、すぐそばの床でテーブルに向かいパソコンを開いている彼女の背中が目に入った。 俺はしばらくの間ぼんやりとそれを見つめ、あぐらを組み直したり、膝を立てたりと姿勢を変えながら彼女の部屋の空気を味わっていた。しかし彼女があまりにも俺の存在を気にかけないため、飽きてしまい立ち上がる。とりあえず寝起きの冴えない顔をどうにかしようと、勝手に洗面所に行って顔を洗い、うがいをして、トイレを借り、その後台所で水を一杯飲んだ。セックスの後シャワーを浴びずに服を着るのがあまり好きではないため、パンツ姿でうろうろしていたのだが彼女は何も言わなかった。ひたすら無心でパソコンに向かっている。 「仕事?」 「……職員室だけじゃ終わらないの」 「ふーん、先生って感じ」 「感じじゃなくて、先生なんだよ」 「知ってる」 質問すれば口を開いたため、どうやら怒っているわけではなさそうだった。いやしかし、女はこうやって平気なフリをした後で突然切れる生き物だからまだ油断はできない。俺はコップの中に言葉を落としぼやぼやとガラスを曇らせながら、微かに響く時計の音を聞いた。今は何時だろうか。音をたどれば壁掛け時計が八時過ぎを示していて、なんだか途端にお腹がすいてしまった。性欲と睡眠欲を処理した後だから仕方ない。しかしこの上さらに食欲まで満たせと頼むわけにもいかないので、俺はひもじいながらもとぼとぼと彼女の元へ近寄り、床に座った。 「……先生」 「ん」 「むらむらします」 横に正座し、丁寧にそう言うと、彼女はキーボードを打つ手をぴたりと止め画面を凝視した。あまりに真剣に点滅する文字の終わりを眺めていたため、つられて画面を見る。『指導案 2月 進捗状況』その後に並ぶ古文の課題はまだ授業で触れられていないものばかりだ。進捗は思わしくないらしい。 「……ハウス!」 「は?」 「ハウス!おうち帰りなさいもう!」 ようやくこちらを見たかと思えば、彼女は飼い犬を叱るように声を上げ、きゅっと俺を睨んだ。 「……なにさ先生ぶっちゃって。あんなにふにゃふにゃ可愛かったくせに」 「うるさいうるさい!」 聞く耳を持たず首を振る彼女が憎らしく、回り込んで背後をとる。とっさに立ち上がろうとした彼女の肩を両手で掴み座り直させ、逃げられないように腕を回した。後ろから抱え込むと、彼女の体は俺の胴の内側にすっぽりと収まってしまう。 「離して!服着て!」 「えー、起きたらもう一回してくれるって言った」 「そんなこと言ってません!」 「一回ですっきりするわけないじゃん俺高校生だよ?」 「知ってるよ!知ってる!あなたは高校生!私の教え子!ああ、あーもう……うぅー……」 罪悪感からか情けなさからか、途中から声を絞りしくしくと泣き出した名前ちゃんは小さくて温かくて、昔飼っていた文鳥を思い出した。手の中に包むときょろきょろと震えるあれだ。守ってあげなければいけない。 「大丈夫だよ。俺もうすぐ卒業だし」 「そういう問題じゃない……教師失格だよ……一年目からこんなことになって、もう私、やってけないかもしれない……っ」 俺みたいな面倒くさい生徒の存在を抜きにしても、着任一年目の教師生活なんてものはきっと大変なんだろう。俺だって環境や人間関係ががらりと変わればナーバスになるだろうし、理想と現実のギャップに苦しめられノイローゼになるような気持ちだってわかる。年度終わりに差し掛かるこの多忙な時期に手を出したのはまずかったかもしれない。満足感に押しやられていた罪悪感がむくむくと膨れだし、鼓動が早まる。どこかのタガが外れてしまったのか、彼女はいつまでたっても泣き止まなかった。 「名前ちゃん……泣かないで」 「うっうぅ……ごめんなさい、ちゃんと拒めばよかったのに、及川くんが男の人で、くらくらして……甘えちゃったんだ、ごめん、こめんね……っ」 ごめん、ごめんと謝りながら背中を丸める彼女は、ぽたぽたと俺の手の甲に涙を落とす。客観的に考えて、この状況においてどちらにより責任があるのかは高校生の俺には判断が難しかったが、俺の立場から考えれば悪いのは百パーセント俺である気がしたため、謝られるたび胸が詰まった。勝手に家について来たのは俺だし、隙をみて押し倒したのも、やめてと言われやめなかったのも俺だ。例え俺が未成年で彼女が成人だとしても、俺が生徒で彼女が教師だとしても、俺は男で彼女は女だし、男が女を泣かせるのは最低の行いのはずだ。立場を取り払いたかったのは俺の方なのだから、責任に関してもそうするべきだろう。と、思えるくらいには俺の漢気はまだ腐っていなかった。 「先生、卒業したら付き合おうよ」 「…………え……」 腕の中できょとんと泣き止んだ彼女の顔を、正面から見たくて覗き込む。 目があったので唇を軽く合わせた。お腹がすいてすいてどうしようもない。今すぐチャーハンを作ってもらえなければこのまま第二戦にもつれ込んでしまいそうだ。でもその前に、震える文鳥を安心させなければならない。かわいいかわいい俺の先生を。 2014.10.19 |