「呼び止められなかったら、どうしようかと思った」 相変わらずやんわりと重力にさからっている襟足を、手のひらで撫でつけながら及川くんは言った。 この距離で向き合うのは久しぶりで、顔を見ようとすると無防備に顎が上がってしまう。恥ずかしくて一歩下がる。 「聞き分けいいふりも大変だよね」 「……」 「諦める気とかないから。ていうかなくなった。そんな顔すんなら絶対引かない」 酷い顔をしている自覚はあるけれど、もうどうにも取り繕えない。全部吐きだして素直になりたいのに、今この場所で及川くんのスイッチを入れるわけにはいかなかった。曲がりなりにも学校だ。しかしもうそれは半分ほど入ってしまっているようだ。 「及川くん、座って、少し話そう」 「座らない」 「……じゃあ、場所」 「変えないよ」 「……」 思わず息を呑む。彼も言った後で我に返ったのか、一度息を吸った。私を安心させようと、前のめりになっていた重心を少しずらし両手を背中に引っ込める。しかし妥協はそこまでのようだった。私は覚悟して顔を上げ、及川くんの両目をじっと見た。 「……嘘ついた」 「嘘?」 「本当は、振る理由なんてなかった。逃げただけ。あのままどんどん好きになって、ダメになるのが怖かったんだ」 「……」 「ごめんね。あんな風に傷つけたのに、結局どんどん好きになってる。本当にしょうがないね」 こんなに不格好な告白をされるのは、及川くんの恋愛遍歴の中でも初めてなんじゃないだろうか。歳下だとか歳上だとか、ベッドの上でそんなの関係あるの、とあの日彼は笑った。しかしベッドどころかここは教室だ。私の領域のはずなのに、もはや年齢も職業も効力をもっていない。服を着ていたって脱いでいたって、結局私たちは最初から最後まで女と男でしかないようだった。こんなことを言っていては教師失格かもしれないけれど、元から不貞を純愛にする方法なんて結ばれる以外にはないのだ。 「……ほんと?」 ゆっくりと丁寧に聞き返す及川くんに、今度は深く頷いてみせる。 「本当」 「一番?」 続けざまに問われ二度、三度、こくこくと頷く。 「……一番じゃなきゃ、嫌だからね俺」 「一番だよ、だって他に比べる人なんていない。もうずっと、及川くんの他に」 「いないから」と言おうとして、なんだか急に恥ずかしくなる。本格的に顔が赤くなる前に急遽「うん」と会話を区切り、口を結んだ。急に終わった私の告白に文句を言うでもなく、及川くんは少しふやけた顔をして私を見ていた。 「あ、なんか変な顔になる……」 呻くようにそう言って顔を覆った及川くんは、声もいつもと違っていた。つい先ほどまで勇んでいた体から一気に力が抜けたようだった。顔をこすって呻いたあと、猫背になりぎゅっと腕を組む。一歩近づいてその表情をのぞき込んだ。 「……へいき?」 「わかんない。なんか力はいんない」 「わたしも」 ふにゃふにゃと笑い合いながら、どちらからともなく椅子に座る。窓の外はもう夜で、一列だけしか電気のついていない教室はなんだか田舎駅の最終列車のようだった。 「手」 「え」 「手だけ触っていい?」 「……いいよ」 スイッチを押すまいと気をつけていたことが嘘のように、及川くんはあどけなく言う。オンになるどころか完全にコンセントが抜けてしまったのでは、と不安になるくらいだった。けれど、机越しに握られた手のひらは温かくほんのりとしめっていたためほっとした。相変わらず大きな手に、甲をすっぽりと包まれて安心するのに緊張するような、不思議な心地になる。 「そういえば名前ちゃん、生意気な生徒に手出されたりしてない?」 「及川くん以来、そういうことはないかな」 そう言うと彼は睨むような得意げなような顔をしてフヘッと笑い声をもらした。そして気を取り直そうと表情を整え、ゆるく重ねていた指に力を込める。 「名前、俺にあと三年ちょうだい」 「……三年?」 「卒業して実業団入って、生活の目処がたったら迎えにいく。そしたら先生、結婚しようよ」 来週、どっか遊びにいこうよ。そんな響きで、及川くんは言った。聞き返す前に、自分の中で何度か反芻してみる。真剣なようでどこか気楽な彼の顔に、返すべき表情が見つからない。笑うところではないことだけはわかった。 「……及川くん、自分の年齢わかってる?」 「わかってるよ。俺スポーツ選手なんだから、奥さんもらうの早いにこしたことないよ。結婚とかそういうのちゃっちゃとしちゃいたいし」 「ちゃっちゃと……」 「お互いの道を行くのはこれからだってそうだけど、名前との、切れない繋がりがほしい」 彼の想い描く夢がいつだって遠大なのは、若さゆえではないのかもしれない。先を見据え理想に向かうことへのエネルギーを、惜しまない人なのだ。叶えるのは大変なことかもしれない。けれど手に入れたいのなら手を伸ばすしかない。彼はそれを身を持って知っている。きっとずっと昔から、落としたくないものに向かって手を伸ばし続けてきたからだ。 「……わかった。いや、ちょっと待って、私も、いまいろいろあって混乱してるから、そのね」 「当たり前じゃん、混乱してるうちにたたみかけてるんだから。先生五つも上なのにそんなこともわかんないようじゃ、俺以外の男とはダメだね。うまくいかないよ。ぜんぜんダメ。ぜったい無理」 及川くんは矢継ぎ早に言いながら私の手のひらをぎゅうぎゅうと机に押し付け「ね!」と最後に軽く叩いた。操られたように思わず頷いてしまう。 「で、でも及川くん……もし気が変わったらこんな約束、いつだって破っていいんだよ?だってこの先、」 「名前、それずるいからね」 「えぇ」 「ちゃんと責任もって、俺を縛ってよ。そうじゃなきゃまた、俺だけ恋愛してるみたくなる」 眉を寄せた彼の顔から、愛しさ以外を感じることができなかった。届かないかもしれない。落っことすかもしれない。けれど、何度でもやらなければ拾えないものはあるだろう。今さらそんな生き方をしてみてもいいのだろうか。体力もなくて、運動神経も悪く、歳相応のリードなんてできないし、正と負の足し算だっておぼつかないこの私でいいのなら、ベッドだって教室だってコートだってどこでだって、手を伸ばしあい生きていきたいと思った。 「がんばる……がんばろう」 「がんばんなくていいよ。がんばんなくたって、どうせ先生俺のことずっと好きでしょ」 一度自信を得た彼はもう無敵のようだった。 思えば初めから彼に勝ったことなんて一度もない。もしくは彼だって、同じように思っているのかもしれないけれど。 花とパラフィン 2014.4.22 END? |