花とパラフィン





 急ぎ足で階段を下りているあいだ、なにを考えていたかは覚えていない。ただうっかりしたところを見られてしまったとか、気を引き締めなくちゃだとか、そんな当たり前のことを思っていた気がする。

 校庭に散ったA4紙を、バレー部員らが拾い終えるのにはものの五分もかからなかった。最後に全員の分を回収し手渡してくれた青年は、やはりどう見ても及川くんだ。昔と変わらない笑顔がこちらを向いている。また少し、背が伸びただろうか。

「先生、連休だからって気い抜きすぎ」
「……ごめん、ありがとう。皆さんも、部活中にごめんね。ご迷惑おかけしました」

 一枚や二枚どこかへ飛んでいってしまったかもしれないがそれは仕方ない。二度同じことを繰り返さないようにとおぼつかない手で紙の端を握る。

「いつまで?」
「え……?」
「三の二の教室で待ってて」

 少しだけ目尻を下げて、及川くんは言った。
 返事を返す間もなく、一団へと混ざっていってしまった彼の後ろ姿をぼんやりと見つめる。今の主将であるらしい三年生の号令で、部員たちはグラウンドの向こうへと引き上げていく。バレー部の練習場である第三体育館は敷地の一番奥なのだ。
 数秒のうちに交わされてしまった約束は、校舎の階段を上りきる頃、ようやく重みとなって胸に落ちてくる。あんな風に手を借りてしまったてまえ無下にもできない。彼は変わっていなかった。どこか変わっていたとしても、すべてがいい方向に少しずつだ。彼が素敵な男の子だなんてことは知っていたのに、思い出の中よりさらに完璧な実物を目の当たりにして身の置き場のない気持ちになる。一方の私はきっと冴えない顔をしていた。最低限の身だしなみに、化粧だって申し訳程度だ。よれよれになったプリントを抱えとぼとぼと教科室へ戻る。

「今日は散々ですね」

 松田先生が笑いながらお茶を入れてくれた。





 まるで告白を待っているようだ。
 今日の分の雑務を終え、西棟の教室へ来ていた。三年二組はかつて及川くんが所属していたクラスだ。今までこんな風にドキドキと彼を待った女の子の数は一体どれほどだろう。多忙で高倍率の運動部主将に、ダメ元といえど気持ちをぶつけるなんてきっととても度胸のいることに違いない。
 高校生の頃、私も一度だけ同級生を呼び出したことがある。放課後、理科準備室に来てください。今思えばなぜ理科準備室だったのかわからないが、実験臭い木のテーブルの隙間で、私は泣きそうになりながらスカートのプリーツを数えていた。
 教卓の前の席に座り、膝を見る。タイトスカートに数えられるものはなく、仕方がないから来週の時間割のことを考えた。夏までに終わらせなければならない単元があといくつか残っている。しょぼつく目で時計を眺めながら、時間なんて、二年なんて本当にあっという間なのだと思った。



「ごめん、思ったより押した」

 頬杖をつきながら、舟をこぐ頭を机に乗せてしまおうかと思いはじめた頃、ようやく頭上から声がした。ゆるみかけていた口元を引き締めて、背筋を伸ばす。教卓に手を乗せて私を見下ろす及川くんはやはりあの頃より大人になっていて、なんだか立場が逆転したようだった。

「居眠りしてた?」
「すみません、及川先生」

 うっかりこぼれた冗談に、及川くんがきゅっと肩を上げる。

「うっ、わ!再会直後にその設定は刺激が強いって」
「設定って……」

 言ってしまって恥ずかしくなった私はごまかすように立ち上がり、窓の方へ向かう。いつのまにか日が傾いていた。薄暗いグラウンドに、自分の顔と及川くんの立ち姿が映り込んでいる。

「びっくりした」
「おっきい休みは戻るって言ったじゃん」
「……そっか」

 今度は及川くんが椅子を引き、大きな体を机の間にくつろげた。高校の頃より少し短くなった髪の毛が、精悍さを際立たせていた。

「まあ、毎回ってわけにもいかないんだけど。帰ってんなら指導出てこいって、溝口く……お世話になったコーチにかり出されてさ」
「そうなんだ。……及川くん、大きくなったね」
「そう?成長期終わってるけど」
「なんか、体格がやっぱり。雰囲気も」
「そりゃ、もう二十歳だよ。子どもじゃない」

 何気なく言ったのだろう彼の言葉はなんだかやたらと意味深に響いてしまったため、私たちは互いに静かに息を吸い、居住まいをただした。

「……先生は変わんないね。髪、伸ばしてんの?」
「あ、うん。ていうか、切りに行く暇なくて」

 落ち着いた彼の物言いは昔から変わらないけれど、生徒という立場を抜け出した及川くんの態度は、私を女として扱う一人の男のそれであるため、なんだかぎくしゃくしてしまう。組んだ手をわきわきと動かしている及川くんだってきっと所在ないのだ。投げ出された長い足の先で、来客用のスリッパが揺れている。飾らない私服は彼の中身をより魅力的に見せていた。及川徹は、やっぱり特別な男の子なのだと思う。

「すごいね。私バレーのこと詳しくないけど、及川くんの名前たまに聞くよ」
「あはは、俺イケメンだからメディア注目度高いの。実力はまだまだだよ」
「それでもすごいよ。そのうちCMとか出ちゃったりして」
「自慢していいよ。元カレだって」

 そこではじめて、彼は挑戦的な顔をした。目尻を落とす笑い方ではなく、うっすらと目を細めるだけの笑みだ。

「……元生徒だって言う」

 彼がこの顔をする時、何を考えているのかを知っている。狙いを定めているのだ。慎重に、確実にしとめられるよう照準を合わせている。私はその的から少しずつ外れるよう、教室の後ろに歩みを進めながら深呼吸をした。彼が席を立つ気配はなかった。

「ねえ、俺たちなんにもなかったみたいだね」

 ふいに聞こえた声があまりに静かだったため、いつかの別れを思い出してしまった。私が嘘をついた時のことだ。

「これからもなにもないの?」
「……」
「今、誰と付き合ってるの」
「……」

 返す言葉が見つからず、振り返って彼を見る。机に手をついて、彼も私を見ていた。真剣な顔だ。手のひらを握り、自分がずいぶん汗をかいていることに気付く。あんなに時間があったのに、彼になんと言うべきか答えを出せないまま再会を果たしてしまった。だって、二年経った今でも彼が私にこんな顔を向けるなんて、思ってもみないじゃないか。

「答えられないか。まあ、そう何度も振れないよね。ごめんね」
「……いかわ、くん」
「はやく帰るつもりだったんでしょ。待っててくれてありがと」

 淀みなくそう続け、及川くんは立ち上がった。椅子の背を押して、一つ伸びをし、「俺も帰るね」と振り向く。自分でもわからないほどの浅さで、私は一度頷いた。前列だけついた蛍光灯にぼんやりと照らされて、彼の背中が教室の出口へ遠のいていく。もうここで会うことはないと思っていた及川くんが、こうして現れて、去っていく。どうして無駄にしてしまうんだろう。誰かに止められているんだっけか。そんなことない。そんなことないのに、どうしても足が動いてくれない。もう自分でもなにがなんだかわからなくて、ただひたすら胸が苦しかった。動かない手足の代わりに、かろうじて上下する肺が早く早くと震えている。ドアを引いた及川くんの腕が境をくぐり、見えなくなった二秒後に、ようやく出た声はあまりにも小さかった。

「待って」

 聞こえていないと思った。もう一度言ってみたけれど、やっぱり大きな声は出ない。毎日授業で鍛えているのにどうしてだろう。頭がふわふわと浮くようで、好きという気持ちがあふれすぎて教室中の空気がどこかへ追い出されているようだった。真空じゃ声なんて届かない。はずなのに、中途半端に開いていた引き戸が再びがらりと開け放たれたため、詰まっていた喉からひゃあと間抜けな声が出てしまった。

「びっくりした……っ」
「自分じゃん!」
「え……え?」
「名前が待てって言ったんじゃん!」
「あ…………うん。そう、待ってほしくて、だって、まだ、私何も……」

 静かに出ていった先ほどとはうってかわりガタガタといろんな机にぶつかりながら戻ってきた及川くんは、私の前までたどり着くと長い長い溜め息をついて、眉を下げた。

「……待つよ。いくらでも待つ」

 二年の間に彼は成長したのだと感心したけれど、もしかしたら私がただ同じところで足踏みを続けていただけなのかもしれない。それなのにまだ待ってくれるなんて、彼はなんて辛抱強いんだろうか。


2015.4.19



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