軽いだるさと呼吸の違和感で目がさめる。 のどに引っかかるような痛みを感じて、昨夜のことを思い出した。結局夕飯も食べずにベッドの上で遊んでいた私たちは一度のシャワータイムを挟み、(私はそこでやめるつもりだったのだけど)再び抱き合っているうちに夜がふけ、朝がきていた。キッチン台の上に、空になったお惣菜のパックが置いてあるのが見える。きっと腹を空かせた彼が夜中に食べたのだ。私にもとっておこうと逡巡しつつ、食べきってしまった彼の冷や汗が見えるようだった。 ふと隣に目を移せば、全てを発散し尽くした男の子が新大陸のような感じでベッドを陣取っていた。壁際に追いつめられた私は左の肩が真っ平らになってしまいそうだ。隙間から抜けだして、健やかな寝顔を見つめる。顎が上がり、のど仏が無防備にさらされている。見上げた先で荒い呼吸とともに上下していたそれを思い出してしまい、顔が熱くなった。いったい、どこであんな手つきを覚えてくるのだろう。 「名前、枕にしないで……」 愛情に負けて、胸と腹の間くらいに頬をしなだらせていると、眠そうな声が聞こえてきた。 「うそ。もっと甘えていいよ」 声はずいぶん嬉しそうだ。私の髪を指で梳きながら、お兄さんぶった口調でほだしてくる。 「俺布団とってた?」 「平気。及川くん体温高くてこたつみたい」 「こたつて」 本当に、人間より体温の高い大きな動物と一緒に寝ているようだった。布団からあんなにはみ出しているのにどうして手足が冷えないのだろう。 「コロッケ、ぜんぶ食べちゃった」 「うん。いいよ」 「お腹すいた」 「私も。てきとうに出すね」 たしか食料棚に即席ワンタンスープがあったはずだ。卵でも落として、朝ご飯にしよう。 わさわさと羽布団をまたぎ、床に落ちていたスカートを履いた。 なんだかすっかり部屋に馴染んでしまった及川くんが、非常食のつもりでとっておいたシュガーラスクの最後の一枚をばりばりと完食し、息をついた。この人は一日にしてうちの食料を食べ尽くすつもりなのかもしれない。 「もう、準備すんだの?」 「え?」 食事を終えて、初めの沈黙が訪れた瞬間をみはからい、そう聞いた。 あまり時間が経ちすぎると言いだせなくなる。一度言いだせなくなったら、きっと二度と言えない。 「新生活。……いろいろと、大変でしょ」 薄い色の目を見つめ、首を傾ける。及川くんは少しだけ瞳孔をゆらし、視線を下げた。 「……先生、俺の進路知ってたんだ」 「木村先生に聞いた」 「及川くんはバレーですよ!東京ね!」と笑った彼の担任はずいぶんと誇らしげな顔をしていた。私だって、彼が故郷をとび出して大きな舞台へと羽ばたいていくことを喜ばしく思っている。 「ちゃんと、話さなきゃと思って」 「うん」 「考えてたの」 「俺もずっと、考えてたんだけどさ」 聡い彼なら、もうとっくに答えは出ているはずだ。だから今日まで会いにこなかったのだろう。偶然会ったことで早まった、いや、もしかしたら来ることすらなかったかもしれない今日という機会に、感謝しなればいけない。 「考えたってわかんないよねそんなの」 しかし彼の口から出たのは、予想外の言葉だった。 「そんなの、やってみてから考えようよ。はじめから諦めるより、うまくいかなくて別れる方がまだいいじゃん」 私は彼がまだ十八歳の青年だということを、あんなに意識していた一方で、どこか実感できていなかったのかもしれない。 部活動を通じ心身を養ってきたのだろう及川くんは、精神的にも風貌的にも大人びていて、なにごとにも達観したバランス感覚を持っていた。同時に繊細な脆さも持ちあわせていたけれど、彼はそれすらちゃんと自覚し制御するような高校生だったのだ。いろいろなことを乗り越えてきたのだろう。理想と現実から最善手を探す能力は、大人顔負けだと思っていたのに。それに逆らうほどの若さを、恋愛において発揮するとは思いもしなかった。私が思っているより、彼は恋愛の経験値が高くないのかもしれない。回数ではなく、本気さの度合いとして。 「そ、んなのって……」 とっさに否定も肯定もできなかった私のあいづちに被せるようにして、及川くんは言葉を続ける。 「俺おっきい休みには帰ってくるよ。親もそうしろってうるさいし」 「……」 「向こう行ったらバレーで忙しくて浮気する暇だってないよ。元からそんな、興味……興味ないって言ったら嘘になるけど……女の子と深い関係築くのなんて得意じゃないし」 「……」 「名前、なんか言ってよ」 「及川くん……わたし」 「…………やっぱやめて。なにも言わないで」 目を伏せた及川くんはまだ笑顔だった。他にする表情がないため、とりあえず貼り付けているというような笑顔だ。見ていると辛くなる。 私の中で、もう答えは出ているのだ。そしてそれが覆ることはおそらくない。勢いに負けて保留にしたところで、結局言うべきことは決まっていた。それなら早い方がいいに決まっている。彼にしたって、私にしたって。 「今日で終わり」 「……」 「今日が、ちょうどいいよ。これ以上はだめ。ね、及川くん」 及川くんは一瞬泣きそうな顔をしてから、すぐに表情を整えた。整えきれなかった眉の根元が、きれいな顔に色気をそえていた。 「ちょうどいいなんて、全然思えない」 「でも」 「これからじゃん。これからじゃないの?やっと受け入れてくれたと思ったのに」 ずるい、約束したのに、と、及川くんは遊園地に行けなくなった子どものような声で私を責める。そんなこと言ったって、ただでさえ乖離していく二人の日常に、物理的な距離まであわさってしまったら現実として続けていくことは困難だ。そんなの彼だって、少し経てば気付くはずだ。 「及川くんだって、そのうちわかるよ」 「なんだよそれ……。未来の俺に責任を押し付けるなよ」 どきりと胸が音をたてる。そんなつもりじゃないのに、その通りのような気がしてしまった。 「俺は、今」 及川くんの目がまっすぐで痛い。テーブルの上のスープ皿をつらぬいていた瞳が、ふいに私に照準をあわせる。 「今の俺と、名前の話をしてる」 「……」 「好きなんだよ。それだけじゃだめ?」 彼の言いたいことはわかる。でもやっぱり、意地になっているとも思う。本当に私を選びたいなら、時間をかけて、様々な世界を見てからだって選べるはずだ。 「ほんとに好きなら、来るべきときにまた会えるよ。だめならだめで、それだけのことでしょう。今の私にこだわる前に、ちゃんと広い世間を見た方がいいよ」 「その間、名前がどこかいかない保証あんの?」 怯むと思った彼は間をあけることなくそう聞いた。テーブルに乗せられた片手はぎゅっと握りこまれている。 「焦ってるのは俺の方だよ。名前の言うように世間を見て、もう一度戻って来た時あんたがここにいる保証なんてどこにもない。どこかの男と付き合うどころか、結婚してるかもしれない。家庭だってあるかも。そしたら、奪っていいわけ?名前、本当に覚悟して言ってる?」 「……」 「自分の言葉が、よけいに俺を縛るって自覚して言ってんの? 」 やっぱり彼は頭の回転が早いと思った。口だって私よりずっと回る。達観したふりをしてこんなにも直情的だ。欲しいものに対して、諦めるということを知らない。妥協も遠慮も選択肢にないのだ。そんな生き方をしていたら、いつか壊れてしまうんじゃないか。余計なお世話かもしれないけれど、そう思う。 「なんとか言ってよ、先生」 「もう先生じゃ……ないよ」 そんな風にしか答えられなかった。 私は彼を傷つけるため、一度深く息を吸った。 2015.2.22 |