「先生!なにしてんの?」 それから、十日ほど経った日のことだ。 「なにって…………買い物とか、銀行いったり」 「えっでも平日!」 「祭日だよ」 「あそっか!」 遠くへ旅立ってしまった気でいた教え子にばったりと出くわしてようやく、この街の狭さに気付く。 一見すれば運命的だが、田舎の中心地に顔見知りが集うのは当前のことかもしれない。新生活までのひと月、暦に縛られることなく羽を休めていたのだろう及川くんは、仙台駅の陸橋の下でにこにことお惣菜の袋をぶら下げていた。ここ数日で、ずいぶん気候が穏やかになった。立ちのぼる街路樹には新芽が芽吹きはじめている。 「ていうか、在校生だって今は春休みだし」 「あ、そうだよね。なんか俺時間の感覚ボケてるみたい」 まるで学校の廊下で会った時のようになんてことない様子で話しかけてくる彼が、もう教室に顔を見せることがないのだと思うと不思議だ。彼の態度からとくに変化は感じとれず、うっすらとした気まずさや居心地の悪さを感じているのはどうやら私だけのようだった。 「はい」 「え?」 「それ」 バス停を素通りした時からそんな予感はしていたが、彼は自然な様子で私の帰路へと合流した。商店街のアーケードを抜けた先、雑居ビルの影で、及川くんはふいに右手を差し出す。指先の示している先がスーパーの袋であることに気付き顔を上げた。これまた自然な動作で荷物を持ってくれた彼は、「ん」ともう一度、手のひらを伸ばす。 「え?」 「手」 「手?」 「繋ぐの嫌い?」 たらしだ。女慣れしている。私は大声で「女たらしだー!」と叫びたい気分になったが、そんなのはただの八つ当たりで、本当のところ照れ臭くてしょうがない自分の初さをもてあましているだけだったため、黙ったままなんとか首を振った。及川くんは嬉しそうに私の手をとって、大股で歩き出す。身長差からして当然、ついていくのがやっとだ。ご機嫌らしい及川くんが気遣いのできる男なのかそうでないのかわからなくなり、思わず力が抜けてしまう。 「先生んちこっちでしょ。俺いつも駅から来てたからわかるよ」 私の足にして十五分の距離を十分フラットで歩ききった及川くんは、両手でビニール袋をゆすりながらアパートの階段を上っていった。私服姿のその背中は見慣れた制服やジャージとちがい、私たちの距離感を曖昧にする。私にしたってストッキングを履いていないときに彼と会うのは本当に久しぶりで、うかうかしているとすっぽりと所帯染みてしまいそうだった。追いかけるように上りきり、鍵を開ける。 「お茶入れてあげるよ先生。ポットどこ?」 「あ、そこ」 「これ食べよ。ほんとは母親に頼まれたやつだけど」 「いいの?」 「いーのいーの。コロッケ好き?」 「うん。好き」 「ぎゃっお茶っ葉こぼした。ふきん!」 男の子にしてはぴーちくぱーちくよく喋る、と前から思っていたが今日は特にそうだ。ちょっと落ち着きなさい、と思いながらキッチン台に散った茶葉を拭き、ティーバックに切り替えたらしい及川くんのフンフンという鼻歌を聞いていた。布巾をすすぎながら、卒業式からの数日間、ずっと考えていたことをもう一度考えてみる。 「もう、会いにこないかと思った」 うまく声が出なかった。いや、むしろ知らずと声に出ていた。中途半端な大きさの声がシンクの中に響く。俯いた視界の端に、ばっと勢い良くこちらを向く及川くんの姿が見えた。 「……なんでいきなり、そんなかわいいこと言うの」 いまの言葉に宿るかわいさというものがいまいちわからなかったが、彼はそうではなかったらしい。たしかにだいぶ弱々しい声になってしまったけれど、内容としてはどちらかというと、彼の気持ちを軽んじるものではなかったか。それにそもそも今日だって、彼は私に会いにきたわけではない。偶然のなりゆきだ。 「俺言ったでしょちゃんと。信じてなかったの?」 「……そういうわけじゃ、ないんだけど」 「まあ、わかるけどさ」 及川くんはコップからティーバックを二つ持ち上げ、三角コーナーにほうる。ああもったいない。あと二回は使えるのに。 「なんとなく会いにこれなくて」 「うん」 「でも、会いたかったよ本当は。寂しかった?名前ちゃん」 「……」 黙ったのがよくなかったらしい。気付いたら切なそうな目をした及川くんがすぐそこまで迫っていて、反射的によけようとしたけれどそれより先に彼の手がシンクのへりを掴んだため、後ろに引けなかった。軽く触れるだけのそれを覚悟して目をつぶったが、受け入れてすぐ、そんなものじゃすまないことを悟る。大きな体を私にあわせ屈めている及川くんは、全身から熱を放っていた。目の前の男の子の生態というのは大概謎だけれど、いま、彼になんらかのスイッチが入っていることはわかる。そしてそれを切れるのは私しかいなく、しかし方法は選べないということも。 「ベッド……」 彼は苦しそうにそれだけ言って、私の腕を引っぱった。抱え込むように布団の上に押し倒され、首筋を強く吸われる。このまま食い殺されるのではないかという迫力がそこにあり、ぞくぞくと背中が震えた。震えをとめようと大きく息を吸った私を見て及川くんは一瞬だけ理性をよぎらせたが、すぐにどこかに投げ捨て、開いた瞳孔で私を見据える。笑っていない。あの時もそうだった。笑っていない彼には人を黙らせる力がある。自分という生き物が他者の上に立つことになんの疑問も持たない目だ。自分の雄としての優良さをよく理解している。 少しの間私を見下ろしてから、何も言わずに服を脱いだ彼はやはり何も言わずに私の服を脱がせにかかった。促され首をすくめ、ニットとインナーを脱ぐ。肌と肌が直接触れて、もうなにもかもがどうでもよくなってしまう。 教師も生徒も、卒業も旅立ちも、いれたての紅茶も置きっぱなしのコロッケも、今までの経緯も、口に出せない一つの未来も、全部ほうり投げてただ、彼の息づかいだけを感じていたかった。 2015.2.4 |