「鍵、閉まってんだろ」 「うん。わかってたけどね」 春のうららかさから取り残された鉄の扉が、冬の寒さを保存するようにきんと冷えている。 華やかな式典を追えたばかりの第一体育館と違い、第三体育館は飾り気がなく静かだった。なんだか、三年間使い慣れた場所とは全くべつの場所のように思えてしまう。引退、さらには卒業という節目を過ぎた俺たちにはもう開かれることのない扉だ。正しく、物理的な意味あいにおいて。もうここへは戻れない。限られた時間は終わったのだ。始まるものがあるにせよ、失うものばかり目についてしまうのは仕方ないだろう。今日くらい、後ろを振り向くことを許してほしい。 とは言っても、振り向いた先にいる後輩たちだって思えばずいぶん逞しくなった。青城の名を預け任せることに不安はない。 「お前、ホストかよ」 はだけた俺の胸元を見てため息をついた岩ちゃんは、小学生のころからほとんど変わらないように見える。背は伸びたしガタイも良くなったけれど、単純で簡素な男である岩泉一はいつだって身軽そうなので、たまに羨ましくなる。 「しょうがないじゃん、俺ワイシャツのボタンまでむしられちゃったし」 「追い剥ぎのようだったな」 青城の制服はブレザーであるため、第二ボタンをあげたりなんなりという甘酸っぱいイベントはさすがにないだろうと高をくくっていたが、甘かったらしい。一人が欲しがるとあとは際限がなく、このままでは着て帰るものがなくなりそうだったためここまで逃げてきたわけだ。 「お前、先生んとこ行くんか」 「行かないよ。今日は」 「ほー、殊勝なこったな」 「だってかっこ悪いじゃん、なんか」 この期に及んで、彼女に格好悪いところは見せたくない。それ以上に、今日会いにいくのはなんだか違う気がした。すうと大きく息を吸い、空を見る。鼻の奥がつんと冷えた。 「あー、体なまる……っ」 「ほんとにな。走るか?」 「そんな青春みたいなことできないよお」 「冗談だよボケ」 楽しそうに笑う幼なじみの顔にいつだって励まされてきたが、俺の笑顔はあまり受け入れられることがないので、彼は俺の強がりを見抜く能力が異常に高いのだろうと思う。でも俺だって心から笑ってる時だってある。こんな晴れた春の日なら当たり前だ。 「岩泉ィ、おいかわー、このあとぷちクラス会だってよー」 裏門から公道へ出ようとしたところで、校舎の窓からクラスメイトに声をかけられた。 「えっそうなの!」 「なんか女子が企画してる。お前来ないとうるせーから来いよ」 「いくいく、当たり前じゃん。岩ちゃんも行くでしょ?」 「おー、こういうの、ずっと行けなかったしな」 放課後にクラスの奴らとご飯を食べて遊ぶなんて、まるで普通の高校生みたいでわくわくした。いや、べつに俺だって普通の高校生だけど。大学に入ったら時間の使い方も変わる。こんな機会も増えていくんだろうか。楽しみなようで、少し怖い。自分がそういうのに向いていることを知っているからだ。体育科の大学生の不祥事。ありがちだった。 「はしゃぎすぎんなよ」 「へいへーい」 春からはこの保護者もそばにいない。 春からのことを考えるといつも少しだけ気が重くなる。 今年に関して言えば少しじゃなかった。教師生活も二年めに入れば甘えは許されない。去年はずいぶんとミスが目立ってしまった。小さなミスは数えきれない。そして大きなミスが、一回。 裏門から校舎を見上げ楽しそうに笑っている彼の目に、私の姿は映っていないようだった。後輩たちにねだられたのか、ずいぶんとすっきりしてしまった制服を隠すように、及川くんはピーコートを羽織った。何を話しているんだろう。とても楽しそうだ。こちらまで顔が綻ぶような表情で小突きあっている幼なじみの男の子たちは、まさに世界から祝福されているようだった。 私に背を向けて、大通りの方へと消えていく。肩越しにはみ出した卒業証書を、はしゃぎすぎた及川くんが一度道に落とすのが見えた。 なんとなく、彼はもう私に会いにこない気がした。 「先生さよならー」 「あ、さようなら」 後ろから声をかけられ、笑顔を向ける。「また会いにくるね」と手を振る彼女たちが本当に、心からそう約束していることは知っている。私だってそうだった。時間が過ぎて足が遠のいたことに今まで罪悪感を感じていたけれど、教師になってみればわかる。その瞬間その心があるだけで、充分なのだ。 「またね。元気で」 うまく笑えているだろうか。どの子を見送るのも寂しいように、及川くんが旅立っていくことがとても寂しい。そしてとても嬉しかった。 2015.1.31 |