タータントラック


熱波
08



 わかっていてやっている、ということはわかっている。それでも言葉を返せない自分が不甲斐なかった。
 及川の体がそこにあり、及川の手が私に伸びる。それだけであの時の感覚が蘇り、思考回路や迷彩神経に火がついてしまう。恋とは何かの恐怖症の一種なのだろうか。思っていたより、これはしんどいものだ。

「名前、何かあったの?」

 ゆう子は鏡越しに私を見つめ、心配そうに聞いた。私は冷たい水で手を洗い、少しでも火照った体を冷まそうと必死だった。手首まで水を滑らせた後、キュッと蛇口を捻り息を吐く。手のひらの水を指先で飛ばし、前髪を触った。

「この前、及川と追いかけっこして……」
「は?」
「捕まったんだけど、最終的に、なんか魔術みたいのかけてくるから……」
「……名前、かわいそうに」

 彼女は言葉通りかわいそうなものを見る目で私を見つめ、ハンドタオルを手渡してくれた。そういえば、電子辞書は大丈夫だったのだろうか。

「慣れない恋愛なんかして、頭おかしくなっちゃったんだね?」
「違うよ!とにかく、私やっぱり無理だ!男の子に触られたり、見つめられたり、そういうのなんか怖い」
「あの及川くん相手に……贅沢者」

 そうは言うが、及川の整った顔だからこそより一層迫力があるのだ。彼は恋愛初心者に向いた物件ではない。十分休みの終わるチャイムが鳴り、私はトイレの出口からおそるおそる教室の方を覗き見た。気を利かせたゆう子が先を行ってくれる。「もういないみたいだよ」と言われ、ほっと胸を撫でた。電子辞書は机に置かれたままだ。岩泉が目を覚ましているので、彼が貸したに違いない。

 眠気と恋煩いでもんもんとした頭を頬杖で支えながら、古典の解釈を聞き流す。はやく体を動かしたかった。走っている時は難しいことを考えなくて済む。恋だろうと愛だろうと地面は地面、空は空だ。ありおりはべりもいまそがりも無い。その単純さが好きだ。
 校舎の上にあるだろう高い太陽を思い浮かべながら、ロダンのようなポーズで居眠りをしているうちに四限目は終わっていた。ふと岩泉の方を見れば、彼も沈没している。学生の本分は勉学だと言ったって、体は一つしかないので両方こなすのは無理な話である。私は席を立ち、窓際へと向かう。
 大きく伸びをしながらリングノートの跡を擦る彼に、声をかけた。

「岩泉……あのさ、」
「ん、おう。ねみ……なに?」
「バレー部のインハイ予選っていつから?」
「来月の上旬。あっちゅーまだな」
「上旬かあ」

 陸上部の予選はその翌週からだ。バレー部の予選が何回戦までありどれくらいの期間行われるものなのかは解らないが、部活動も大詰めといったところだろう。

「てか名字、あいつ辞書返しに来るから逃げた方がいいんじゃねえ?」

 さすがはチームの大黒柱、岩泉だ。気を利かせたその一言に教室の後ろを振り返る。彼の姿はまだない。

「あれ?名前ちゃん何話してんの?」

 と思ったら前のドアから入ってきていた。ちょくちょく発揮される彼の意外性が腹立たしい。

「べ、べつに。古典のこと。いまそがりのことだよ」

 とっさに言うと、岩泉は「ああ、よくわかんねえよな。ラ行変格」と話を合わせてくれた。なんて頼れる人だろう。バレー部が強い理由が少し解った気がする。

「岩ちゃんに勉強のこと聞くなんて名前ちゃん勇者だね。岩ちゃん俺以上にバレーバカだから、その内ボールと間違えて頭はたかれるよ?」
「適当言うなボゲ及川!」
「アダっ」

 幼なじみらしい彼らのやりとりを横目で見ながらそそくさと自分の席に戻る。さっきよりまともな返答ができたことにホッとしたが、いまそがりのことってなんだと自分が嫌になった。彼らはそのまま弁当を持ち、教室の外へと出ていく。こちらを見ているゆう子に曖昧な笑みを返した。

 こんな風に何となくふわふわと関わっていれば、いずれこの前の出来事も忘れられ、以前のようにただの同級生としてくだらないやりとりを続けていけるのではないか。私も彼も来月には大一番が控えている。無駄に精神を乱してもしょうがない。そもそも私だけが騒いでいるだけで、あんなことは彼にとって日常茶飯事なのかもしれない。そう思うと、なんだか胸のあたりがやきもきして酸素が足りないような気持ちになった。走りたい。今すぐ走ってどこかへいきたい。最近はこんなことばかりだ。
 しかし、そもそも、私が走っているのはそんな理由だっただろうか。
 ふいに愕然として、教室の雑踏が遠のくのを感じる。嫌なことから逃げるために、私は地面を走るのだろうか。そんなのは違う。私は走るために走るのだ。及川のせいでも、及川のためでもない。
 このままじゃあ、ダメだ。

 勢いよく椅子を引き、私は教室を飛び出した。

 廊下を駆けながら、酸素が体に取り込まれていくのを感じる。目の前の彩度が一度上がって、無性に声を出したい気分になった。

「及川……!」

 階段を下りていく及川に、最上段から呼びかける。すんなりと、心の奥から声が出た。彼は振り返り、わずかに顔をほころばせながら私を見上げた。踊り場の窓から差し込む光が彼の後ろ頭をきらきらと照らしている。

「……ん?なに?」

 こんな時でも慣れた風に私を迎え受ける彼が少し憎い。でもそれよりずっと愛しかった。同じように振り返った岩泉が、察したような顔をして階段を下っていくのが見える。廊下を行き交う生徒たちの視線がちらちらこちらへ向けられているのを感じる。

「私…………」
「…………うん」
「走るから!」
「…………うん?」

 彼は少し意外そうに首をひねり、踊り場に着けていた右足を段上に戻した。

「頑張って走るから!及川も、その……が、」

 今更ながら顔が熱くなる。でも今は、私の方が目線が高い。大丈夫だ。

「頑張って!インハイ予選!」
「…………」

 そこまで言い切って、やっと息を吸った。息をしないと死ぬと忠告された通りだった。死にそうだ。
 彼は私をじっと見つめ、少し何かを考えるような顔をしてから、いつになく力の抜けた顔で笑った。その表情からあのどうしようもない魔力は感じなかったけれど、もっとべつの力が私の心に入り込み胸を熱くさせる。

「わかった。頑張るよ」
「うん」
「名前ちゃんも、頑張ってね」
「うん」

 これが何の宣言なのかは自分でもわからないし、自分のモチベーションを確保するためだけの自己満足なのかもしれないと思うけれど、私が今したいのは告白ではなく宣言なのだからしかたない。勝手ながらすっきりして、私もいつの間にか笑っていた。
 逃げるためでなく、進むために走りたいと思った。


2014.6.5


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