薄曇
06
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薄曇りの空から白い日光が差し込み、廊下の内側を照らし出している。
湿度が高いが、雨が降る様子はないようだった。夏のインターハイ予選まではもうひと月を切っている。なんとか今の調子をキープできればと思っていた。近頃いつになく足が軽い。上目で外を覗いてから、本校舎の端へと足を向けた。私の好きなおかずパンはまだ残っているだろうか。本当は昼間こそ栄養価の高いものを食べ部活に備えたかったが、早朝バタバタしていたせいで玄関にお弁当を忘れてきてしまった。朝からシャワーを浴びるのも考え物だと思った。
お財布を握りしめ足早に歩いていると、向こうの角から男子が四、五人、何やらどつき合いながら歩いてくるのが目に入る。あ、と嫌な予感がしてよく見れば、案の定その中に彼の姿があった。
逸らそうと思った時には目が合い、僅かに微笑まれる。こちらを見る及川が、何か物言いたげにしているのは遠目にも解ったため、すれ違いざまどんな言葉をかけられるか少し考え、考えた末とっても面倒になり、私はあからさまながら踵を返した。
べつにこの廊下を通らなくても購買部に辿りつくことはできる。感じが悪かろうが、今は及川とコミュニケーションを取りたくなかった。パタパタと反対側の階段へ引き返していると、背後にたしかな気配を感じ、うなじのあたりがぞっと冷える。まさかと思い振り返れば、集団から飛び出した及川が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。予想外の驚きと恐怖に、私の心臓はぶるりと飛び跳ね、全身の筋肉や発声器官に急速な指令を下す。
「ひゃあ!?なに!なんで追っかけてくるの!」
「なんで逃げんのさ!ちょっと待ちなさい」
「いやだ来ないで!来ないでよばかー!」
走るのは好きだが、人に追われることは苦手だ。グラウンドのコーナーと違い階段の踊り場はつるつると滑る。すれ違う人が邪魔になり大したスピードも出せない。一方で後を追う及川は、周りの人が自然と避けてくれるため容赦なく距離をつめてくる。後ろから捕まるのが嫌で、私は空き教室に逃げ込んでドアを閉めた。どうせ捕まるならしっかりと身構えた状態で受けて立ちたいと思うのは動物の本能だろうか。ガラリとドアを開けた及川を正面から睨みつけ、威嚇する。
「なんだっての……」
「こっちの台詞だよ!」
及川は後ろ手にドアを閉め、ため息を吐いた。後ずさるのも癪だったため、あえて一歩近づき、体を押してみる。
「どいて」
「やだね」
「バカ!」
「はあー?」
長身の体はびくともしない。真上から降る視線が少し怖い。
私は余裕を演出するように大きく息を吐いて、横を向いた。が、フンと鼻で笑われ泣きそうになる。もちろん余裕なんてありはしない。
「なんで逃げるの?」
「……逃げてない」
打って変わって優しい声で問いかけた彼にボソリと応えれば、笑顔の裏で彼が苛ついているのが解った。
「逃げたでしょ」
「追ってきたからだよ」
「イーヤその前に逃げた」
「用事思い出しただけだもん自意識過剰」
人の苛立ちが怒りに変わる瞬間を見た気がした。及川の目が睨むように薄くなる。別に煽りたいわけではないのに、後に引けないのはそういう性格だからだ。泣きそうだ。
「……見てたクセに」
今度は及川が小さく呟いた。否定しようとしたが、彼が言っているのは先ほどのことではないと気付き顔が熱くなる。昨日窓から見下ろした及川が、今は目の前で私を見下ろしている。
「み、見てないし。花巻くん見てたんだもん」
「なに、マッキ―好きなの?」
「及川よりは好きかな」
私の発言がその場しのぎの反抗だと解っているのか、及川はいよいよ呆れたというように頭を掻き、もう一度ため息を吐く。
「ほんっっと可愛くない。信じられない」
「……」
彼の周りの女の子は、いつも笑顔で気だてがよく素直だ。彼のことが好きだからだろう。だったら私はなんなんだろう。及川のことが気になるのに、笑顔にも素直にもなれず怒らせてばかりいる。なんだか情けなくなって眉を寄せた。きっと更に怒ったような顔になっている。
「なんで怒ってるの?」
「怒って……ない……」
「あのさァ、」
「…………ほんと……だよ」
やっとの思いで、それだけ絞り出した。驚いたり走ったりした体が血液を循環させすぎたせいか、頭がぐわんぐわん熱くなって涙腺を刺激する。目の奥が痛い。じわじわ涙が滲んでくる。
「……名前ちゃん、なんか君って、本当にずるいね」
「なんで……ずるいのは及川だよ。なんなの、もう、やだ」
どうしたらいいか解らずに、私はもう二本の足で立っているのが精一杯だった。及川の指が襟足に触れたのを感じて、自然と息を吸う。少しだけ涙が引っ込んで視界がクリアになった。
前も思ったが、真っ正面から向き合うと彼の体格の良さを一際感じる。背が高い割に威圧感を与えない印象の彼だが、こんな風にいつもと空気を変えた時、身を持って思い知らされた。目線のすぐ先にワイシャツのワンポイントが見える。世界の全てが彼の内側にある気がして、催眠術でもかけられたようだった。
添えられた指に促され顔を上げる。綺麗な形のまぶたが、今は切れ長に細められている。薄い色の瞳孔が動物のようにきゅっと開いているのが間近に見え、目を閉じた。
「……」
「……」
「……俺はできるよ」
「…………え?」
「俺は名前ちゃんに、キスできるけど」
「……」
「嫌なんでしょ?」
触れ合う前に声が聞こえ、薄目を開ける。傾いた顔を更にかしげて、及川はそう聞いた。私は何も答えられず、何かに縋りつきたい気持ちだったが彼の体に触れることもできず、ぎゅっと胸元のリボンを握りしめた。
何か言わなきゃ。
嫌なのだろうか。私は及川が嫌いだから、睨むのだろうか。そんなわけない。私は彼に何もされていない。でも今まさに、されそうになっている。どうしよう。頭がおかしくなりそうだ。
「わたし……は……」
「…………」
及川の長い指が私の首筋に添えられている。高鳴る頸動脈の上をゆっくりと、なぞるように撫でられて体が震えた。操られ、捕食されそうだ。それでもいいと思ってしまっているのは、ヤケになっているせいか、心の底の願望か。
くらくらと再び目を瞑りそうになった私に、待ったをかけるようにお昼のチャイムが鳴り響く。
近くの教室のドアが勢い良く開く音が聞こえ、びくりと肩が跳ねた。及川の手が呆気なく離れ、頬がひんやりと冷える。
「ちょっといじめ過ぎちゃった?」
「…………」
彼はそう言って、性悪と無邪気の中間のような顔で微笑んだ。
初めて見る表情に、私はまた切羽詰まる。
「息しないと死んじゃうよ」
最後に私の肩を軽く叩き、教室を出ていった及川が、同じ高校生と思えず胸が苦しくなった。溜め込んだ息を吐きだし下を向く。体を動かした後とは違うよくわからない脱力感が全身を覆っている。昼食を食べ逃したことに気付いたが、お腹なんて全くすいていなかった。
2014.6.1