黄昏
03
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打って変わって、晴れの日ばかりが続いている。最終下校時刻のチャイムが響き、顔を上げた。夕方の日差しは空の青みをうすく散らし、グラウンドの端へと傾いていく。
ポツポツと引き上げ始める運動部員の足取りを眺めながら、トラックの脇でスポーツドリンクを体内に流し込んでいると、外周を終えたバレー部員たちが水道の周りに集まっているのが見えた。
私も顔を洗いたかったので、端っこを借りようか、後にしようかとまごついているうちに後ろから肩を叩かれる。前方にばかり意識を集中していたためおかしな声が出た。
「へあ!」
「わあ!そんなに驚かないでよ。ごめんねアイツら邪魔でしょ。今散らすから」
汗をかいても爽やかな主将さんは、そう言って水道水の滴る顔をTシャツの裾で拭いた。露わになる腹筋に、走り高飛びの後輩が黄色い悲鳴を上げたのが聞こえた。幼稚な私は、なんだか同級生の裸をリアルなものとして感じられず、じっと凝視してみる。
「べつに平気。私もう一本走ってくし」
「えっち。そうなの?帰り気をつけなよ」
何がえっちだ。あんたの腹に動かされる感情など何もないわ。
私はなぜか合戦前の武将のような面持ちでそう思ったが、睨みつけるだけで言葉にはしなかった。
「……帰り自転車だから平気。アリガト」
「だからなんなの、その顔」
珍しくうっすらと睨み返してきた及川に、たじろいで反射的に拳を顔の前に上げた。彼は「はあ?」という表情をして私の両手首を掴むと、力を込めてグイと両側に開く。身動きが取れなくなった私は、あわてて首を振った。
「や、やだ、及川」
「……」
「おいかわ?」
「……ん?」
「……なんかその笑い方、やめて」
それはいつものへらへらとした愛想笑いではなく、どちらかというと試合前に、集中した選手が浮かべるようなぴりっとした笑みだった。違うのは、対戦相手ではなく私という個人に向けられていること。なんだか背筋が寒くなって、そのあと肺が熱くなった。百メートル走を思いっきり駆け抜けた後のような胸の切迫感に、息がしづらくなる。自分の眉が下がる一方なことに悔しさを感じたが、昔飼っていた柴犬だって自分より大きな犬に対してはいつも尾を丸めていたし、仕方ないことだと思う。
及川が私を取って食うことはないにしても、この雰囲気はなんだか不穏だ。本能的に逃げ出したくなる。
私は及川を見上げながら、もう一度「離して」と言った。下がった眉を無理やり上げたので、おかしな顔になっていたと思う。彼は何も言わずに笑みを深くすると、半月のような目の奥に何か喜怒哀楽以外のものをチラつかせた。それは私の知らない感情だったため、私もどんな感情を返せばいいのか判断がつかなかった。視界の端で小さな山を描いていた水道の水が、形をくずし、やがて消える。そうだ、私は顔を洗いたかったのだ。スポーツドリンクを飲んだ後だというのに喉も乾いている気がした。
いつまでも向き合っていたところで埒が開かないので、力任せに体を引いてみる。その瞬間ぱっと手を離され、足元がふらついた。
ひんやりと空気に触れた手首を両手でさすりながら、もう一度彼を見上げる。及川はいつものニヤついた顔に戻り、偉そうにしていた。
「呑気な名字ちゃんにもちょっと、男の子ってもんがわかったかな?」
「……えぇ?」
「入門編だから今のは。覚えておくように」
「悪いんだけど及川、何言ってるんだか全然わかんない」
率直に返せば、彼は唇を尖らせ、後ろを向く。
「お前ら、他の部活も使うんだからいつまでも溜まるなよ」
「うるせー及川、てめえこそイチャついてないでさっさと体育館戻っとけ!」
「ちょ、岩ちゃん主将の威厳吹っ飛ばすのやめてよ」
もー、と愚痴りながら一群に混ざっていく及川の背中を見つめながら、私はもう一度彼の目を思い出した。走り寄ってきた後輩に「なにされてたんですか!?」と問われたが、そんなのは私が一番知りたかったため「ストレッチ」と答えておいた。
及川の、運動後の熱い手のひらが、私の手首を軽く一周して、留まる。その行為がなにを伝えるものなのかは知らないが、私は自分の全身が弛緩していくのを感じていた。
男の子はみんな、あんなよくわからない技を使えるのだろうか。
怖いなあと純粋に思う。方向性を失った眉毛の形を指で撫で顔になじませながら、細く長く息を吐いた。
とてももう一本なんて走れそうにない。冷たい水で気を引き締めなければ。
2014.5.25