好天
02
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よく晴れている。気持ちのいい青空の下、熱を持った体を水道の水で洗い流していた。
濡れた首や腕がひんやりと風を受け、気持ちがいい。この季節、朝方はまだ気温が上がり切らないのだ。東北の初夏は出足が遅い。
ふぅとタオルに顔を埋め、Tシャツの上にジャージを羽織った。始業時間に合わせ、校内は雑然としていく。ふと顔を上げれば、第三体育館から朝練を終えたバレー部の一群が引き上げてくるのが見えた。その中でも一際目立つ長身の男は、登校中の女子に呼び止められなにやらヘラヘラと顔をほころばせている。
だんだんと近づいて来る彼らを避けるように校庭を回り込もうとしたが、同じクラスの岩泉くんに見つかり声をかけられた。
「おっす、つかれー」
「……お疲れさま。バレー部、最近早いね」
「あー、なんか一人早いとみんなつられるんだよな。おかげでねみー」
強豪のバレー部と違い、陸上部で朝練をしているメンバーは私を含め五人ほどだ。それぞれ種目が違うこともあり、各々がもくもくとこなすのが習慣のため、バレー部の仲間意識は少し羨ましかった。
「あ、名字ちゃん。オツカレー」
「…………かれ」
「あれ!?なんか反応うすくない?」
やっと私に気付いたらしい及川は、サポーターをくるくると回しながら軽い声を出した。朝練の直後でも様になる無造作ヘアが腹立たしい。
「……」
「なに?出会い頭、なんでいっつも睨んでくるのさ」
「及川かっこいいから、あんまり一緒にいたくないの」
小走りで昇降口に向かう私の後を、大股で悠々とついてくる及川にイラっとして、振り向かずに言う。しかし案の定、彼は楽しそうな笑い声をあげた。
「俺がかっこいいのは俺のせいじゃないよ」
「あんたのせいじゃなければ誰のせいなの」
「うーん、親?」
なんとなく振り向けなくなってしまった私は、階段に足をかけ一段飛ばしで上っていく。
「あれ、着替えないの?」
「このまま出る!」
ジャージで一日過ごすのも女子としてどうかと思ったが、どうせ放課後も走るんだから制服は部室に置いておけばいい。
そのまま他の部員と部室棟に消えていった及川にホッとして、足を止めた。
「あ、名前おはよー」
「おはよう」
「今日も朝練?」
「うん。なんか暑いね今日」
「そう?寒くない?」
クラスメイトは眉を下げ呆れた顔をする。さっき冷やしたばかりの体はもう火照っていた。近頃妙に代謝がいい。代謝のよさはスタミナに繋がるだろうか。これでタイムが縮んだら、朝ごはんのメニューをアスリート仕様に替えてくれた母親のおかげだ。
「及川くん、今日も爽やかだったね」
「え、そう?爽やかかな。いかがわしくない?」
「……爽やかだよ。名前、体動かしすぎて体温調節機能とか美的感覚とかぶっ壊れたんじゃないの」
「えー!美的感覚はともかく、体温調節できなかったら足つりそう!」
「はいはいそうだね」
私にとって大切なのは及川の美醜の判断ではなく、地上を速く駆け抜けることだ。かっこいい男の子に恋をしたら、それはたしかにドキドキすることなのかもしれない。憧れないわけではない。しかし風を切って地面を踏みしめ、体が新しい場所へと飛び立っていくあのドキドキを、超えるものとも思えなかった。
「及川、彼女いないって言ってたよ」
「マジ!?告るなら今じゃん!」
恋愛に前向きになれるその行動力を、純粋に凄いと思う。私は自分を他人に評価されるなんて、部活だけで充分だ。
そう思い、色気のない陸上部用のジャージで教室へと踏み入った。席に着き、置き勉している教科書を整え、筆箱を引っ張り出す。
何か宿題は出ていただろうかと今さら首を捻ったところで、背後から声をかけられた。
「名字、なんか呼ばれてんぞ」
指をさされ、後ろのドアを見る。
見たことのある男子が立っていた。あれはたしか、テニス部の副部長だ。
*
走りたい時に限って、補修講座などというものが開かれる。
来るべくテストに向けて希望者のみが受けるはずのそれに、なぜか強制枠があり、私の名前がエントリーされていたのだ。たしかに部活にばかりかまけ数学の予習復習などしたことがなかったし、前回の小テストは初めの二問しか解らなかったが、自分は馬鹿ではないとどこかで思っていた。しかし教室の後ろに座っている強制エントリー者たちが、揃いも揃って制服ではなく部活着を身に纏っているのを見て、やっぱり私たちは馬鹿なのかもしれないと思った。
「名字ちゃん、おバカさんだったの?」
「そんなこと……ない……もん」
「でも他のメンバー見なよ。組んだら何かで全国制覇できそうなくらい部活バカばっかじゃん」
「及川人のこと言えないじゃん!」
「俺は文武両道だから。こんなの受けるわけないでショ」
ニコリと目を細めた及川が憎らしくてシャーペンを握りしめる。たしかにここは及川のクラスというだけで、彼自身はもう帰り支度を済ませているようだった。
「はやく部活行けば?」
「月曜やっすみー」
「バレー部定休あるの?」
「そ。オーバーワークは良くないからね」
強豪なのに、意外だと思った。いや、強豪だからなのかもしれない。しかし定休日があるなら成績が落ちないのも頷ける。と言い返そうと思ったが、私は休みでも土手を走りそうなので黙った。それにきっと、及川にしたってそうなのだ。地頭がいいのだろうか。
溜め息をつき、窓の外に視線を向ける。放課後になっても空には雲ひとつ浮いていない。
「及川、私告白された」
「え」
口を突いて出た言葉に自分で驚き、さっそく後悔していると、彼は少し間をあけた後ぐいと背筋を曲げて私の顔を覗き込んできた。私はますます首を曲げグラウンドの向こうを見つめる。
「へえ。へーえ?」
「お、及川は慣れてそうだよね……私、よくわからないから……」
「べつに慣れてないよー?ガチ告白なんて意外と少ないし」
意外と、なんて言う時点で充分慣れていると思う。それに彼が告白されないのは特定の相手がいることが多いからであって、口に出さず狙っている女子なんていくらでもいる。
「好きな人いるって、つい言っちゃった」
「俺?」
「バカじゃないの。……陸上だよ」
「おお、グラウンドが恋人ってやつだ」
「トラックかな。トラックの線が恋人」
校庭に少しずつ、アップを終えた運動部員たちが散らばっていく。いいなあと思いながら目を閉じた。
「照り返すような真夏の競技場で、白い線が六本、綺麗に沿って内側に切れ込んでいくでしょ。並んで飛ぶ飛行機雲みたいに。好きなんだ」
あの場所に行くために、私は数学の知識を放り投げてまでグラウンドを走り続けている。風が前髪を吹き飛ばしていく感覚がふいに蘇り、いてもたってもいられない気持ちになった。
「俺の知り合いにもボールとかネットが恋人みたいなやついるけど、せっかくの高校生なんだからもっと幅広く青春しないともったいないよ」
「振られたくせに」
「残念、新しい彼女できました」
サラッと零された言葉に、一気に現実に引き戻される。油断も隙も無い男だと思った。今朝方、無責任にクラスメイトを焚きつけてしまったことを後悔する。
「もしかして、朝喋ってた子?」
「いや?あの子とは別だよ」
「…………」
「なに」
「ちゃんとした彼女いるならさ、あまりいろんな子に愛想振りまかない方がいいんじゃない」
「え、でも俺がいきなり女の子無視しだしたら感じ悪くない」
「…………まあ、そうなのかな?」
たしかにそうかもしれないが、その辺は上手くやるのが礼儀ってものじゃないだろうか。と思ったが、言わなかった。恋愛経験の乏しい私にそんな説教はされたくないだろうし、私だってよくわからない。
ただ、告白されただけで一大事と騒いでいた自分と、彼の恋愛のテンポがあまりに違うことに少し、やりきれなさを感じた。
「先生来ないね」
「……及川、もう帰りなよ。彼女に馬鹿だと思われるよ」
「それは嫌だなァ」
彼は素直に頷いて、通学カバンを肩にかけた。水色のジャージもよく似合うが、彼は制服も様になる。文武両道、と言うほど頭がいいのかは知らないが、少し見習わなくちゃいけないと思う。
「青春、かあ」
取り残された教室で、こそりと呟いてみる。とりあえず目の前の数式を倒さないことには、部活も恋愛もないようだった。
2014.5.24