雨開
15
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私のくだらない意地で、及川を振り回している気がする。
恋愛に逃げるもなにも、もう部活はないのだしべつに誰に気を使うことでもない。そもそも恋愛そのものに後ろめたさを感じる理由だって良く考えたら見当たらない。それでも一歩を踏み出せないのは、ただ単に私の心の準備が整っていないからであり、つまりはびびっているのだった。格好つけてあんな風に言ってしまったことを後悔していた。
及川のとび色の瞳がじっと私を見つめている。
彼は窓の桟に肘をあずけながら、なにが嬉しいのかにこにこと私を眺めていた。
「及川、授業」
「ん?」
「もう、昼休みおわるよ」
「うん」
「うちのクラス、自習だけど」
「うちは進路相談。俺もう決まってるから」
予鈴が鳴っても、及川がそこを動く気配はなかった。空き教室のカーテンが風にそわそわと靡き、午後の光を細かく散らしている。及川のネクタイものんびりと揺れていた。
なんだか抗いがたいほど居心地がよく、私も諦めて窓の外を見た。こうして二人でいるけれど、私たちはまだ友達同士だ。一緒にお昼を食べようと誘われ戸惑ったが、「付き合ってなきゃ二人でいちゃいけないの?」と首を傾げられ陥落したのだ。私は案外ちょろい女らしい。
「名前ちゃん髪伸びたね」
「うん、なんか最近体力余ってるからか、髪とかすごい伸びる」
「そんなことってある?」
肘に頬をあずけた彼の顔が、きゅっと笑顔になった。及川の茶色い髪が太陽に透けていて綺麗だ。こんなふうに陽だまりの中でみると、彼の存在はとてつもなく貴重なものに見える。のびのびとしていて、少しの陰りもなく、ピュアでプレーンだ。実際は必ずしもそんなことはないのだけど、すっきりと整った造形がそう錯覚させる。外見にともなった内面の天真爛漫さもその錯覚を補強していた。
「及川……う、うし」
「牛?」
「うしろから、抱きついてもいい?」
「はっ」
思わずそう提案すると、彼はだらけていた姿勢を正し窓枠を両手で握りしめた。
「どうしたの名前ちゃん!」
どうしたもこうしたも、そうしたいのだ。熱くなった頭に突き動かされるようにして彼の後ろへ回り、ごちっと背中に額をつけた。及川の肩がわずかに揺れる。Yシャツ越しの背中が温かいのはおそらく照れているせいではなく、常に酷使される筋肉が熱を蓄えているからだ。脂肪をなくせない女の子とはちがう、男の子らしい身体だ。ときめきと少しの羨ましさに胸がしめつけられる。お腹に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「……」
「……」
「……前からでもいいんだよ?」
「いいの。及川の匂いがする」
「朝練のあとTシャツ着替えただけだから、汗臭いと思うけど」
「汗ってより、筋肉の匂い」
「筋肉って匂うの?」
いつもより若干早口な及川は意外と照れているのかもしれない。女慣れした彼を、私でも照れさせることができると思うと嬉しかった。どちらのものか解らない心臓の音が頭の中に響いている。
「私、及川に触られるのは怖いのに、及川に触りたいっておもう」
「……」
「ゆう子にムッツリって言われた」
「あはは!」
彼の声が空気でなく体内を伝って耳に届く。なだらかな肩甲骨が筋肉の下で動いている。力の抜けた背中は意外と柔らかくて気持ちがいい。腹に回している手の位置を、一度意識してしまうとドキドキして指先が震えた。離そうと思った瞬間上から握られてどうしようもなくなってしまう。
「……及川は私と付き合ったら、私に触る?」
「触るよそりゃ。でも嫌なら我慢するよちゃんと。俺名前ちゃんのこといじめたいけど、傷つけたいわけじゃないし」
「……いじめたいんだ」
「いじめたいよ」
及川は私の腕をやんわりと緩めると、体を半回転させこちらを見た。「いじめたい」。彼はハッキリとしかし柔らかにそう言って、私の頬っぺたを指でつまむ。
「ひゃめて!」
「あれ、けっこう伸びる」
なんなんだこのいじめっ子は。向き合ったというのに色っぽい雰囲気は全くなく、私は触れていたYシャツから手を離した。恥ずかしいし、地味に痛い。睨み上げるとパッと指を離し、彼は両手を広げた。
「いいよ、さわって。好きなだけ」
「え?」
「触りたいんでしょ?」
得意満面の及川に、なんだか本当に触りたかったかどうかも疑問になり、無言で眺める。「ん?」と小首をかしげる可愛子ぶった表情に耐えられなくなり、シャツの胸をバンと叩いた。
「いたい! なんか最近岩ちゃんに似てこない!?」
彼の身近にいればこのような対応になるのは仕方ないと思う。私だって何かボールのようなものが傍にあればぶつけていた。
「ぶりっ子するから!」
「えー」
「えーじゃないよ! もう!」
「付き合って、名前」
「えっ」
「付き合ってよ」
いったいどのような力を加えられたのか理解する間もなく、彼の言葉に驚いているうちに立ち位置は逆さになっていた。私の後ろには窓ガラスが迫っている。前には言わずもがな及川だ。
「ちゃんと待つから。いろいろ。でもとりあえず、とりいそぎ、俺の名前ちゃんにしとかないと、もう落ち着かなくてやだ」
「…………」
素直すぎる彼の心境に、どう頭を働かせても断る理由が浮かばなかった。ずるい。こんなのはずるだ。こんな男につかまってしまった私は可哀想だ。
「わ…………」
「……」
「わか」
「……」
「った……」
窓枠に手をついた及川の顔は普段よりもずっと近くにある。
「よろしく」
私の顔をまじまじと眺めながら、彼は一言そう言った。見つめ返すことができない。私は一度頷いて下を向いた。呼吸をしないと死ぬ、ということは経験から嫌というほど知っている。でも呼吸をしたところで死にそうだ。体の中心が捩れるように熱く、足元がふらつく。彼は時々、こんな反則技をつかうのだ。
耳元に慣れない感触を感じ、キスをされたのだとわかった。
「ま、待つって、」
「え?」
「待つって言った!」
「んー」
わずかに顔を上げれば、及川が想像した通りの表情で私を見つめている。一方の私は自分がいまどんな顔をしているのか解らなかった。
「待つ待つ。キスから先は、待つよ」
彼はそう言うとぺろりと唇を舐め私の後頭部に手を伸ばした。大きな手のひらに耳のあたりまですっぽりと覆われ、自然と上を向いてしまう。慣れた風に唇を合わせ、少しずつ私をほだしていく及川に、全てをあけ渡してしまいそうになる。前よりもさらに、深く追いつめるようなキスに、私の心は崖っぷちに立たされていた。なのに腰を支える手は崩れることも許してくれない。
やっぱり可哀想だ。こんな男を好きになった私は、もうどこにも逃げられずにそのうち窒息死してしまうに違いない。
思考回路を手放す寸前、なぜだか空の様子が気になった。
梅雨はもう明けたのだろうか。だとしたら、嬉しいのだけど。
(一応)終わり
2014.7.4
2014.7.4