霹靂
11
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雲が厚いせいで、夜が早い。
白鳥沢に負けて一週間が経った。切り替えろ切り替えろ、悔しければ前へ進めと、頭の中で正論がまくし立てられてはいるが、ふとした瞬間湧き上がる悔しさに慣れることはない。何度経験したって敗北には慣れないし、慣れたら終わりだとも思う。四六時中鳴り響く正論という名のやっかいな雑音だって、体を動かすことでしか振り切れないのだ。来月になれば夏の合宿が始まるし、秋には春高の予選が控えている。たしかに止まっている暇はない。
自主練を終え、部室に向かう。各々の部活着に身を包んだ生徒たちが薄暗い学内を右往左往している。休日の学校はなんだかサバンナの夜のようだ。平日よりも生き生きとした運動部員たちは複数の群れを成して走ったり座ったりしている。遠くから吹奏楽部の名も知らぬ楽器の音が聞こえてくる。野球部はいつもブラバンやチアが応援してくれていいなあと羨んでいると、校舎沿いの脇道に見慣れたシルエットを見つけた。
そういえば今日は陸上部を見かけていないことに気付く。何となく気になって、後を追った。
「名前ちゃん」
「……おいかわ」
彼女はわずかに掠れた声を出して、ぎくりとしたような、ほっとしたような、なんとも言えない顔で振り返った。抱えていた何かをお腹に押しつけるように握りしめ、じっと俺を見上げている。
「どうしたの? 今日、陸部遠征?」
校舎の高い壁が、ナイター灯の光を遮って彼女の顔色を隠している。この裏にあるのはたしか用務員室とグラウンドの整備用具置き場と、いつもよくわからないものが捨てられているゴミ捨て場くらいだ。
「及川……今日ね、陸部の県予選だったんだ」
「地区大会抜けてたの? 凄いじゃん」
「うん。このまま、いけるかなって思ってた。調子良かったし」
照れたように笑う名前がなんだかいつもより小さく見え一歩近づく。彼女が下を向いたので、つむじと前髪ばかりになり表情が隠れてしまった。
「……ダメだったや。そんな都合良くはいかないね」
「…………そっか」
どの部活も、勝ち残れなければ夏すら迎えられないのは同じだ。辛いことだが俺に同情されても足しにはならないだろう。かといって頑張ったねと褒めてやれるほどの立場でもない。頷いて「お疲れ」と言うと、彼女も一度頷いた。
泣いているかと思った名前は、パッと顔を上げると意外にもさっぱりとした顔で言った。
「陸上、やめようかなあと思って」
「……」
「どっちにしろ、三年はこれで終わりだしね。思いっきり走れたから、諦めもつく」
俯いて、顔を上げて、最終的に俺の胸のあたりに視線を定めた名前は、澄んだ目をしていた。けれどそこには何も写っていないように見えた。いつもきょろきょろと世界を反射させる彼女の目が、グラウンドからもれるわずかな光すら吸い込めずにいる。
捨てに行くつもりなのだろうか。抱えた布袋の端からはボロボロの靴紐が垂れている。
「本当に?」
自分でも驚くほど、冷静な声が口からこぼれ出た。
彼女は少しだけ瞳孔をつぼめたが、すぐに目をそらし、遠くで賑わいはじめる部室棟の方を見つめる。
「やめんの?」
「だから、もう三年だし。やめるよ」
「それは部活でしょ」
「……大学でまで走ったところで、未来につながるわけじゃないから」
「……」
「高校で得たものって、なんだったかな」
彼女は彼女で、いつもとは違う冷静な口調を保っていた。まるで知らない子のようだ。挫折を機に大人になったといえば聞こえはいいが、きっとこれはそんなものじゃない。ただこみ上げるものに、無理やり覆いをかけてどこか遠くへ捨てようとしているだけだ。ぼろぼろの運動靴と一緒だ。慣れ親しんだ自分に別れを告げることで、彼女は無敵になろうとしている。それはつまり、逃げだ。
「三年間ひたすら走って…………あー、もう少し、勉強とか、ちゃんとしとけばよかったね!」
「名前ちゃん。本音じゃないことなんて、言わない方がいい」
「……本音だよ。ずっと見て見ぬ振りしてきた本音。白い線の内側をいくら走ったって、結局どこにも行けないし、意味なんて、」
「名前」
思ったより響いた俺の声に、校庭を歩いていた女子が数人振り返る。名前は叱られた子供のような顔で俺を見ていた。若干不安定ではあるが、それでもさっきよりはいつもの彼女の目に近い。
「だってもうわかっちゃったんだもん……広い競技場で化け物みたいな選手に囲まれてさ、自分の能力とか、限界とか」
たまに見せる反抗的な目で俺を捉えると、名前は必死にそう言った。名前はいつも必死に生きている。全力で走って、全力で転ぶ子だ。そんなところがかわいいと思う。無責任な願望だとしても、大人になんてなってほしくなかった。
「足なんて努力で何秒も速くなるもんじゃないんだよ! もうできることなんてないよ!」
「……」
「才能がないんだよ……」
彼女は消え入るような声でそう言ったあと、「及川応援してくれたのにごめん」と続けた。
たしかに、彼女が身を置く世界は純粋に記録だけが評価される個人競技だ。孤独で残酷なことだと思う。彼女の言うように、努力や技術ではどうにもできない壁があるのかもしれない。チームとして補い合い、成長していける自分たちは恵まれていると思った。
彼女の痛みもわかる。天才が背後に現れたあの日、俺は生まれ持ったものの違いに愕然とした。あいつの全てが光って見えた。一人と一人、一列になって競い合い、数字で示され、それが全てと言われたら俺はとてもやっていけない。でもきっと、彼女が言っているのはそういうことだ。
「努力しても、好きでも、私じゃ無理なんだ。好きでもどうにもならないんだよ、及川。ほんとに、恋みたいだね」
「……うん。そうだね」
「足が速く動かない。あの子より先に息が切れる。これが私の限界だって、身体中が悲鳴を上げてるのがわかるの。伸び代なんて、全部使い果たした。元からそんなになかった」
彼女はそう言いながら、目の前にある壁を叩くような動作で俺の胸ぐらに掴みかかり、ぐいぐいと体重をかけた。胸が痛んだが倒れてやるわけにもいかず、じっと耐える。名前の声が体に直接響いて、肺のあたりにとどまった。
「どうして私の両親はスポーツ選手じゃないんだろうとか、どうしてもう少し長い足に産んでくれなかったんだろうとか、最近そんなことばっかり。お父さんもお母さんも、私のことちゃんと応援してくれてるって、知ってるのに……」
「……」
「くやしいよお……」
胸元が熱く濡れていく。
俺もなんだか、泣きそうだった。
2014.6.21