エラーメーラー


Re8:




 気付けば西の空が白んでいた。オフィスじみた吹き抜けの奥の大きなガラス窓に、ゆっくりと街の輪郭が浮き立っていく。二人っきり、夜の中に閉じ込められたような閉塞感が去ると同時にある種の親密さや緊張感がほぐれ、なんとも言えない照れ臭さが残った。

「ちょっとでも寝た方がいいんじゃない?」

 冷めた紅茶の最後の一口を飲み干して、臨也は言った。あれからソファーに並んで座り、濃すぎる紅茶をゆっくりと時間をかけて飲み下した私たちは、互いに言葉を発することなくただじっと自分のこと、そして相手のことを考えた。肩が軽く触れる程度の距離で、ぼんやりと地デジチューナーのデジタル時計を眺めている時間は一見無為なようだったけれど、昨日までのことを考えればこんなに贅沢なこともない。臨也の声と同時に、デジダル時計は五時を回る。一晩のうちにいろいろなことが起こりすぎて実感は皆無だが、今日からまたいつも通り、社会人としての一週間が始まるのだ。なんだか途方もない話のように感じた。

「うん……そうかも」
「ベッド使えば?」

 彼は何気ない口調でそう言ったが、彼にしては珍しく気を使っていることが、そしてそれを私に悟らせないようにしていることが、何気ない言葉の速度やちょっとした仕草からわかってしまった。

「あ、べつに横になれればソファーでも」
「……そう? 俺は別にどっちでもいいけど。午前中は家でする仕事だけだし、なんなら俺が……」

 臨也はそこまで言うと、ぴたりと言葉を止め私を見る。なんだか変な顔だった。何かおかしなものを飲み込んでしまった子どものような表情でしばらく黙りこくり、するすると目をそらす。

「何を気を使ってるんだろうね、俺は」
「……いや、嬉しいよ? 普通に」
「なんか馬鹿っぽいな、名前相手に。……寝るの? ベッドがいい? 俺と一緒は嫌? それなら俺はソファーで寝るよ。気にしないならベッドで寝る。どっち? 俺も眠いからさっさと選んで」

 打って変わってあけすけに質問を連ねた臨也があまりにいつもの折原臨也だったため、やはり魔法というのは夜が明ければとけてしまうものなのかと実感する。でも残念とは思わない。私が求めるのは一晩の輝けるロマンスではなく、彼のいるありふれた毎日だからだ。

「一緒で、いい」
「……そう」

 臨也の顔を見て正直にそう言うと、彼は小さく頷いて立ち上がった。この家の勝手をまったく知らない私は、さっさとロフト階段を上っていった彼の背中を追いかけるしかない。寝室は二階にあるようだった。キングサイズの大きなベッドと書き物用の机が配置されただけの簡素な部屋に通され、思わず室内をぐるりと見回した。ビジネスホテルでももう少し生活感があるというくらい、ひたすらにこざっぱりとしている。就寝という目的ただそれのみに特化された部屋だ。居心地は決して悪くないが、彼が毎晩ここで一人で横になり、目を閉じてすうすうと夢を見ているのだと思うとたまらなく切ない気持ちになる。

「これ」
「ん?」
「その服で仕事行くんだろ。一応着替えておきなよ」
「あ、ありがと」

 ベッドに放られたスウェットの上下を抱きかかえ、一旦部屋から出る。以前にも彼からパジャマを借りたことはあったが、その時はたしか私のためにユニセックスのカットソーか何かを用意してくれていたのだったと思う。付き合っていたから、私の着替えの準備もあったのだ。しかし今日渡されたこれは完全に男物だった。着替えてみるが案の定、あちこちの着丈が合わない。しかし素材がいいのか、隙間があいて寒いということはなかった。

「大きいか。まあ我慢して」
「うん、平気。なんか、急激にすごく眠い……」
「何時に起きる?」
「こっからだったら、七時前かな」
「……あと二時間弱か」
「……頑張りマス」

 それでも寝ないよりはましだ。携帯のアラームを二重にかけ、ベッドサイドに置く。高そうな羽毛布団は相変わらず寝心地がよく、彼の家に泊まった翌日は布団から出るのがとても辛かったことを思い出した。ずるずると隣に滑り込み、枕に頭を沈ませてきた臨也の体に手を添えて、目をつむる。今あるすべてが夢の中のできごとのように思え、次に目を開けた時、残る物などなにもないのではと怖くなった。ぎゅっと彼の腕を握ると、臨也はこちらに向けて寝返りをうち、何も言わずに私の肩を撫でた。そのまま背中へと手が回る。やんわりと抱え込まれた拍子に、つま先に彼の素足が触れ少しだけ安心した。
 あらゆる感覚がゆらゆら揺れて、不確かな世界が散るように意識から消えていく。それをまた繋ぎ合わせた時、あなたがここにいることだけをひたすらに望んでいる。突然失うことの怖さを忘れられられる日が、この先来るのだろうかと、頭の隅で悲しく思った。
 眩む意識の中、彼を掴む右手の感覚だけが最後まで残っていた。

続く/

2014.11.28


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