エラーメーラー


Re7:



「ごめん」

 何に対してだろう、と思っていると、彼は穏やかな声で「乱暴にして」と続けた。
 そして静かに私から離れ、ソファーのあるリビングフロアへと段差を下りていく。本当に洒落た作りの部屋だった。こんなところで生活しているから情緒が安定しないんじゃないかと思うほどだ。ソファーに座り込んだまま後頭部をもぞもぞと掻いている臨也にかける言葉が見当たらず、無言で隣に座るのもなんとなく恐ろしかった私は、勝手にキッチンへと入った。何か温かいものが飲みたい。室内は適切な温度と湿度に保たれていたけれど、ほてっていた体温が涙となって放出されたせいか肌がすうすうしてしょうがない。

 これまた見事なシステムキッチンに気圧されながらも、よくよく見れば備品や食器などは以前から彼が使っていたものと変わらないことに気付き、少しほっとする。それならばと記憶を辿り、なんとなしのあてずっぽうで右上の棚を開けると、そこには見慣れた紅茶のパッケージが二つ並んでいた。彼の好むアールグレイと、私の好むアッサムだ。私はなんとなく、それを見て大丈夫だと思った。私たちはきっと大丈夫だ。私はここに戻って来れる。
 伏せられた耐熱グラスを二つ返し、アールグレイの茶葉をポットで蒸らす。ふとシンク台を見ると、高そうなワインのボトルが目に入った。飲んだのかな、と見てみるが栓は開いていない。

「……酒の勢いで、うやむやにしちまおうかとも考えたんだけどね」

 背後からそう聞こえ振り向くと、彼はばつの悪そうな顔でボトルに手を伸ばし、ぞんざいにワインセラーへと転がした。そのまま私の隣に立ち、二人の間で熱をもつティーポットをじっと眺める。照明のスイッチが分からなかったためキッチンは薄暗いままだ。リビングから入り込むぼんやりとしたLEDだけを頼りに臨也の影を眺める。何の変哲もない部屋着に身を包む臨也の体の形が懐かしく、この細身のシルエットがたまらなく好きだったことを思い出す。抱きつくとアイロンをあてたばかりの繊維の匂いがする几帳面なところも、意外と子ども体温なわりに汗をあまりかかないところも、せっかくの自由業なんだからと言って襟のあるシャツを着たがらないところも、私は大好きだったのだ。
 彼の性格はたしかにあまり良くないかもしれないし、行いだって褒められたものではないかもしれない。でもそんなこと、彼の形や温度や愛すべき些細なこだわりに、なんの影響をもたらすというのか。私の恋心にどれだけのケチをつけるというのか。知ったことか。

「君はどうしたいの」
「私は臨也と一緒にいたい」
「そう」

 腕を組みポットを見下ろしている臨也の声は穏やかだった。メールと電話であらかじめ喧嘩しておいてよかったと思った。乱された感情が喉元をすぎれば、互いが本当に望んでいることが拍子抜けするほどありありと浮かび上がってきてしまい、もう見て見ぬ振りもできない。

「タクシーで来たの?」
「うん、アイランドタワーのとこまで。ちょっと歩いた」
「……不用心だな」

 ちらりと見上げると、いくらか闇に慣れた目に、眉をひそめた臨也の表情が映った。うんそうだね。ここへくる途中で通り魔に刺されでもしたら、私は死んでも死に切れない。昔から防犯面にはわりかしうるさい彼の一面を思い出す。思い出すことばかりだ。会えない間に募った想いよりさらにたくさんのものが、会ってしまえば次々と溢れ出してくる。

「……こんな時さ、なんて言えばいいんだろうね。やり直そう? 君がいなきゃダメだ?」
「……」
「薄っぺらいし、様にならないよね」
「べつに、格好つけなくたっていいよ」

 臨也のあけすけな言い草に堪えきれずふきだした私は、なんとかシリアスな空気に戻そうと手のひらで口を覆ったが、覆ったとたん今度は涙が出そうになって臨也の肩におでこを押し付けた。情緒不安定なのは私だ。アイロンのきいた部屋着の匂いを嗅ぎながら、ぐすぐすと鼻を吸う。きっと臨也は困った顔をしている。意外と日常的に困り顔を見せる、彼の打たれ弱さだって好きだ。

「臨也の本音が聞ければ、それでいいよ」
「本音か……」
「……」
「会いたかった」
「……うん」

 ねえ臨也、私はもうしばらく泣きやめそうにないから、代わりに紅茶を淹れてくださいよ。このままじゃどんどん濃くなってしまう。

続く/

2014.11.13


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