novel2


 鍋をしようと買い集めた大量の食材が底をついてなお、私たちは長いこと動かずに、温かな炬燵の中へと脚を突っ込んでいた。四人で入るには小さすぎる座卓だ。否、炬燵に入るには長すぎる脚が二足、計四本あるというのが正しい。
 年末のテレビは期待に反し興味を引かず、仕方なく付けたパソコン上の古い映画は佳境へと差しかかっている。そうは言っても、シリーズの四作目ともなれば展開は読め、私たちは一人、また一人と夢の世界へいざなわれていった。
 一番背の高い人物が遠慮なしに胴体をうずめているため、他の三人に残されたスペースは少ない。何度押しやっても結局はその状態になるので、夜が耽るころには各々が諦めて寝る姿勢を模索した。硝子は足だけを炬燵に入れて、クッションに頭をあずけている。夏油くんはあぐらをかいたまま器用に卓上に肘をつき、謎の安定性をたもっていた。私はといえば、そんな彼の膝小僧をお借りして横になり、炬燵布団を申しわけ程度に体へと巻つけた。
 この世の自堕落を詰め込んだような空間で、ひっそりと日付が替わろうとしたころ──それを感じ取った夏油くんがぴくりと体を揺らし、そのまま腰を上げる。
 日を跨ぐ前に片付けくらいはしなければ、さすがにまずい。そう思った彼の良識ある行動であった。自ずとそこに乗っていた私の頭は転がり落ち、ごちんと無情なる音が鳴る。したたかに床に額をぶつけた私は、抗議をしようにも人の体を勝手に枕にしていた後ろ暗さが勝り、結果、無言で額をさすった。
「げ」と予想より低い声を発し、夏油くんは私を助け起こす。
「効いた……」
「……すまない。冷やそう」
 ふらふらと手を引かれながら台所へ向かい、奮発して買った某有名ロールケーキについてきたふやけた保冷剤を受け取る。寝起きの頭で、たしかに痛む打ち身を冷やしながら、私はぼんやりと流し台の前で立ちすくんだ。
「赤くなってない? ちょっと見せて」
 言われるがまま顔を上げた私の前髪をかき分けて、夏油くんは一度患部をなでつける。背の高い彼の横で台所の蛍光灯がまたたいて、私はうっすらとまばたきをした。数年間、共にいるけれど彼はこんな顔をしていただろうか。まじまじと近くで、同級の異性を眺める機会がなかったことに気づき、私はつい彼の目の奥までもを覗いてしまった。
 彼はそのままゆっくりと屈み、私の口にキスをした。唇が触れ、また離れる。浅くも深くもない、ごく速やかなキスだ。その後、わりかし強めに抱きしめられたところまでを含め、一連の動作があまりにも自然だったため、私はまるでそうすることが当然であるように彼の背を抱き返した。友人二人は眠っているが、部屋の明かりはついている。いつ目を覚ましてこちらを見るとも限らない。そんな中で私たちはしばらくのあいだじっと抱き合い、静かに息をする。
「もうしばらく冷やした方がいいよ」
 夏油くんはそう言うと同時に体を離し、もう一度私の額を撫でてから、座卓の方へと戻っていった。
「わかった……」
 私はただ了解をし、蛍光灯の下でぬるい保冷剤を握りしめる。炬燵からはみ出た硝子の胸元にブランケットをかけてやりながら、夏油くんはもう一度うたた寝の体勢をとっていた。彼はいつでも女性に対し紳士で、冷静で、常識的だ。なので先ほどのことも疑問に思う余地はないのだろう。そんなわけはないのに、私はそのとき本気でそう思い込んだのだ。



 それから、距離感が変わり、触れ方が変わり、彼の笑顔が少しだけ変わった。そして一番に変わったのは、彼が折に触れ私にキスをするようになったことだった。断りなく行われるその接触は、かといって強引さを伴わず、けれどもやはり何の言葉も説明もなかった。私はそれを受け止めたあと、いつでも宇宙空間に放り出されたような所在なさと、温かなぬるま湯に包まれたような安心感を同時に得た。
 私は流されやすいのだろうか。それとも彼に何らかの力があるのか。それは呪力というよりも魔力だ。呪術師である私たちが使うにはおかしな例えかもしれないが、彼の持つ魔性の力がとろとろと私の思考をぼやかして、あやつり、すべてを納得させてしまう。

「お前ら、いつから付き合ってんの」
 日頃、その口さがなさに参ったりもする五条悟の率直な性格に、このときほど感謝したことはなかった。私がこのひと月、聞きたくとも聞けずにいた疑問を彼はいともたやすく本人へと問う。「お前ら」とは言ったものの、彼の言葉は完全に夏油くんへと向けられていた。なので私は彼の返答をじっと待ち、その数秒ともつかない間を永遠のように感じながら、自分のこれからの命運に思いを馳せた。返答が否定であれ肯定であれ、私の心が掻き乱されることに違いはなかったからだ。
「いつからだっけ? 名前」
 それだというのに、夏油くんはあろうことか私に向けてそう尋ね、小さく首を傾けた。目元は涼やかさをたもっていたが、人を試すような狡猾さもまた見え隠れしており、私はいよいよ途方にくれる。
「みんなで、お鍋した日……」
「マジかよ。やらし〜」
 無意識に、そう口にしていた。それ以外の言葉を持っていなかったし、それ以上の答えを探す気力もなかった。五条くんはしてやられたという顔で一言、二言、私たちを茶化し、それからすぐに話題を変えた。彼にとって私たちの関係性はそこまでの重要事項ではないらしく、彼らしいなと肩透かしをくらうとともに、ほっとする。そっと夏油くんを見上げれば、彼はにこやかに目を細めこちらを見ていた。

 その日の夜、彼は私を抱いた。
 これ以上の進展においては、そう易々と流されてなるものかと心に決めてはいたものの、結果として私は彼に抱かれ、彼は私の横で安らかに眠っていた。
 まっすぐに鼻先を天井へ向け、仰向けで目を閉じる夏油くんの横顔は、暗がりで見てもなお目に焼きつくほどに端正な線をしている。私は痛む下腹部を抱えこみながら、その夜に起こったことを思い返した。

 彼は私の部屋の前でいつものようにキスをして、それからいつもとは違い、踵を返さずに私の部屋のドアノブを引いた。彼に続いて自室へと入り、この部屋はこんなに狭かっただろうかと思っているうちに、大きな体に抱きすくめられる。キスをされ、抱きしめられ、もう一度キスをされた。その度、増していく深さに、私は学生服を掴みながら小さく首を振った。
「抱きたい」
 無言で制止をする私に対し、彼の言葉はこの上なくストレートだった。
「ダメ?」
「だめもなにも……」
 返す言葉は何も思いつかないのに、感情ばかりがぐるぐると渦を巻いて息苦しい。それらはとうとう溢れ出して、目の端からこぼれ落ちた。
「何もわからない」
「……」
「わからないのに、ここひと月、あなたのことばかり考えてる」
 息も絶え絶えに訴える私に反して、彼はやはり笑顔だ。眉を下げ、何かとても小さく弱い生き物を見つめるような表情をしている。
「ごめん。そんな名前が、あまりに──」
 彼はそこまで言うと、こほんと一つ咳をして真顔を作った。彼なりに誠実な態度をとろうとしていることが窺えたが、なんだか逆に白々しさを感じる。
「可愛くて。不安だった?」
「当たり前だよ」
「でも大丈夫。名前は私のことが好きだろう」
「……」
「私も名前のことが好きだ。何も問題はない」
 頷きそうになった首をすんでのところで傾けて、私はなんとか問い返す。
「問題とか、そういうことなの?」
「違うかな? 私も恋愛をしたことがそうないから、わからないけど」
「恋愛を……」
「したことがなかった。この間まで」
「この間って、いつ?」
「みんなで、鍋した日」
 私が五条くんに言った言葉を彼はそのまま復唱し、また笑う。
 私はもう抗う術をもたなかった。否、正確に言えば理由がなかった。彼の言う通り、何の問題もない気がしたし、何よりも体を滑る夏油くんの手のひらがあまりにも心地よく、理由も問題も、言葉も理屈も、どこかへ消え失せてしまったのだ。
 気付いたときには腰に重みがのしかかり、彼が私に入り込んでいた。雑な愛撫をされたわけではないと思う。むしろしつこいくらいだった。それなのに、やはり一連の所作があまりにも自然だったため、破瓜の覚悟をする間もなく私は彼を受け入れていた。
 日頃の冷静さからは想像もつかないほどの熱が、彼の腹から湧き上がり私に打ち付けられていく。私の魂を固定して、これ以上少しも動けなくしてしまう楔のような熱量を、私は寮の古いベッドの上で何度となく受け止めた。彼は私に何か恨みでもあるのだろうか。わけもなくそう思うほどの行為の中で、彼の顔を見上げてみればそこに予想した涼やかさは微塵もなかった。
 そうしてわかる。恨みも、愛も、呪いも、情も、何も変わりはしないのだ。

「痛かった?」
「覚えてない」
「それは……残念」
 夢うつつの目のはしで明け方の光の形を捉えていると、彼も同じように光る窓枠を見つめていたのか、背後からそう言った。どういう意味かと問い返す前に、肩口に小さな痛みを感じる。
「何もかもを覚えておいてよ」
 彼は静かに呟いて、息を吐く。
 それは無理だよ。すべてを覚えておくなんてできない。いつか今日のことも薄れてしまう。
 そう思ったけれど口にはせず、私は寝返りを打ち夏油くんの髪を撫でた。大きな体をやんわりとまるめ、彼は胎児のように眠りにつく。仰向けで寝ていた彼の形を思い出し、私はあまりの印象の違いに悲しくなった。どちらも紛れもなく彼で、どちらも紛れもなく愛おしかったからだ。

 ──今日のことも薄れてしまう。
 ただ一つ誤りがあるとすれば、それは私の浅はかな油断であった。
 深く深く、その夜はいつまでも私をとらえ、もうそこから動くことはできないのだ。そんな予想が、十代の少女にどうしてつくというのか。


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