novel2


- 2017年 春

 想定外の事態により下手を打った。何年、呪術師をやっていてもそれは唐突にやってくる。基本的に後手に回らざるをえない対処療法において、常にあらゆる展開を想定し続けることなど不可能なのだ。よって、想定外の事態による一定の犠牲は、想定内であった。
 今回は偶然、それが私であっただけだ。不運に対し、実力が足りていなければ当然死ぬこととなる。傷は浅いが頭を強く打ちすぎた。もう数秒で、私は意識を失うだろう。痛みや苦しみは感じないかもしれないが、人生の最後を自覚できないというのはなんとも情けなく、呆気ないものだと思った。目の奥が白み、地面の硬さが頬を打つ。慰めに誰かを思い出そうとして、それがはっきりと像を結ぶ前に、暗転──。


 目が覚めたということは、死んでいないということだ。私がそう気づいたのは、意識が覚醒してしばらくが経ったのちだった。視線の先には人でなく、無機質な四角が像を結んでいる。
 ここが地獄ならば話は別だが、果たして地獄にBluetooth付きのサラウンドスピーカーがあるだろうか。目の前のデスクの上には、シンプルなオーディオ機器とノートパソコンが並んでいる。私は体の動く箇所を確認し、それから自分の置かれている状況を目視する。指、首、肩まではかろうじて動くが、大腿骨をやられているのか腰から下の感覚が鈍い。かけられているのは何の変哲もない羽毛布団で、横たわっているのは自分の部屋のものよりも少しだけ大きなベッドだった。男の部屋だろうか。色合いや小物を見てなんとなくそう思う。
「脚、まだ動かない?」
 予想を肯定するように男の声がして、私は首の角度をぎりぎりまで捻った。
「おかしな感じだ。名前が私の部屋にいる」
「……夏油傑」
 聞き慣れた、けれどもう少しで忘れそうになっていたたおやかな声に意識が冴え、そうしてまた、くらりと眩む。おかしな感じどころか、こちらは気がおかしくなりそうだ。
「フルネーム、ときたか。まあそうだろうね。十年会っていないんだ」
「その格好、何かの冗談?」
 彼はどこぞの住職のような荘厳な袈裟を揺らして、私の死角から正面へと移動する。大仰な装束はシンプルな部屋の内装にまるでそぐわない。けれどかといって、彼自身に似合っていないかと聞かれればそうとも言えなかった。墨のような黒。裾広がりの布々はこれ以上ないほどに彼の外連味けれんみを引き立てている。元から大きな体はさらに所以不明のオーラを纏い、宗派も知らないのにうっかり仏門に降りそうになるほどだ。
 かと思えば、彼はやれやれといったふうにそれらを手で解き始める。まるで会社から帰宅したサラリーマンのような仕草だ。私は羞恥心も忘れ、ぼんやりと彼の着替えの一部始終を見届けた。
「お目汚し失礼」
 ゆったりとした部屋着に着替え終えると、最後に結んでいた髪を解き、夏油傑は息を吐いた。その太く黒いスウェットが、過去の記憶を刺激する。
「髪、伸びたね」
「これでも最近切ったのだけど」
 ぞんざいに手ぐしを通しながら、彼は毛先をぱらぱらとほぐす。
「……なんか、人相悪くなったね。夏油くん」
 その手つきを見た途端、急に彼の存在が私の中で実体を結び、呼び慣れていた呼称が自然と口からこぼれ落ちた。
「でも考えてみれば、昔からそこまで良くもなかったか」
「言うね」
 笑いながら、夏油くんは窓際の椅子に座る。この笑顔は知っている。よく浮かべていたし、最後にも見たものだ。
「名前は、死なずに呪術師を続けていたんだね」
「昨日まではね。今日には死んでるはずだったんだけど」
「驚いたよ。別件で赴いた現場に、旧友が倒れていたものだから。しかし大した判断ミスだ。あれは一人で対処するべきものじゃあない」
「呪霊は」
「祓ったよ。邪魔だったからね」
「……別件って?」
「教えられないな。君は私の敵対者だ」
 夏油くんははっきりとそう言って、指を組む。うっすらと細めた目に温度はなく、わざと強い言葉を使うことで私の出方を窺っているようだった。
「敵対者を助けるような男に、そんな冷たい顔をされてもね」
「……名前は可愛げが減ったね」
 彼は自ら張り詰めさせた空気をゆるめ、組んでいた指を頬に添える。そうだろうか。昔から、私はそこまで愛嬌のある女ではなかったと思う。学生時代を思い起こそうとして、目の前の男から焦点をずらしたところで、ふいにこれは死に際に見る夢なのではないかと思い立つ。走馬灯ならぬ、都合のいい再会の白昼夢だ。
「減ったけど可愛いよ。名前は……ずっと可愛かった」
 けれど彼がそう言ったことにより、私はこの状況を現実と認めざるをえなくなった。私の思い描く夏油くんならば、絶対にそんなことを言ったりはしない。私の想像力を超えてくるということは、やはり彼は生身の夏油傑なのだ。
「初耳だけど、ありがとう」
 私はなんとかそう返して、首元の布団を少しだけ引き上げた。今自分がどのような顔をしているのかがわからない。おそらく見られたい顔ではないはずだ。夏油くんは小さく笑い、簡素な椅子の上で今度は脚を組んだ。きっとちょろい女だと思われている。けれど同時に、彼の発言が私をほだすための嘘でないこともわかった。わかるからこそ、表情に迷うのだ。
 この男が私を「そちら側」へ誘うことはないのだと思う。こうして助け、笑うけれど、彼の内側へ招かれることは決してない。
「何を考えてる?」
「あなたにとっての私だよ。でも、もう何も言わないでほしい。傷つき直すのはきついから」
「名前はいまだに、自己評価が低いね」
「おかげさまで」
 こうして愛情のようなものを示されるほど、私は彼の優しさを感じ、またそのことに傷つくのだ。私に親愛を抱きながら、あのとき一言の弱音も吐かず、恨み言も垂れず、誘うことも、連れて行くこともしなかったのは、ひとえに彼の優しさだ。わかり合えず傷つくことがわかっていたからだ。案の定、私が過去から今に至るまで、彼の抱く理想の世界とやらに共感を示せたことはない。こうして再会を果たしても、その気持ちが揺るがないことにだけは安心していた。
「すまない。怪我人に言うことじゃなかったかな」
「安心して夏油くん。人に理想を押し付けるほど、私も幼くはないよ」
「……」
「自分にとって、百パーセント都合のいい理想像なんてこの世のどこにも存在しない。それくらいはもうわかってる」
「私に打ち砕かれたことによりね。人生は学びだ」
 仄明るい窓を逆光にして、腕を広げる夏油くんはなんとも楽しそうだ。
「性格が悪い」
「今さら気づいたのかい?」
 そういえば、今は何日で何時なのだろう。部屋のどこにも時計はなく、けれど遠くで囀る鳥の鳴き方からして、きっと明け方なのだろうと思った。ふいに、彼が半分だけカーテンを引いたため部屋は薄闇に満たされる。夜が明けたら、ここを出ていかなければと思う。
 そんな私の思いをよそに、夏油くんは立ち上がりベッドの脇へと座り直した。男の重さにマットが軋み、私は反射的に脚を引こうとする。まだろくに動かないことを思い出して惚けているうち、彼はそのまま布団を捲り、横になった。突然のことに上半身すら固まってしまった私は、すぐ横にある黒い髪を見つめながらゆっくりと息をした。嗅ぎ慣れない香の匂いがする。そして男の汗の匂いがした。きっと私も芳しいことだろう。なにせ特務へ赴いたきり、服すら替えていない。
「あのときは、一緒に寝そびれたからね」
「……冗談だって言ったじゃん」
「本当にそう思ってた?」
 天井を見つめたまま、夏油くんは静かに言葉を続ける。
「そんなわけがない」
 じゃあ、あのとき私が抱かれていたらあなたの未来は違ったの? そんな馬鹿らしい台詞を吐きそうになり、なんとか思いとどまった。そんなことは有り得ないとわかっているからだ。彼に止められなかった夏油くんを、私に止められたはずがないのだ。彼──五条悟は夏油くんを止められず、追えず、かといって殺すこともできなかった。
 今は、違うのかもしれない。
 ふいに思い浮かんだ予感は頭から離れず、私は終わりがすぐそこまで近づいている気配を感じた。
 寝返りを打った夏油くんの腕が私の上に覆いかぶさる。広い胸が窓を遮り、視界が黒に満たされる。傷口をなぞるように這った手が、腰をつたい、胸に触れ、頬を撫でた。私はただ、記憶よりも長い彼の髪の先を見ながら、手足の力を抜いていた。
 もしあのとき。もし、今──。
「……ダメじゃないか、拒まなきゃ」
 彼はやおら呆れたようにそう言って、大きな溜息をつく。
「憎めないって言ったよね?」
「許せないとも言った」
「好きだから許せないんだよ。本当に夏油くんって、わかってそうで何もわかってない」
 だんだんと腹が立って、そのせいか体に血の巡りが戻ったようで、私は痛む足腰に力を込めて無理やりに壁の方を向く。
「平均値で見たら五条よりデリカシーないから、気を付けた方がいいよ」
「それは由々しいな……」
 気が削がれたのか、元からその気はなかったのか、彼もまた体勢を変え反対向きに寝転んだ。背中同士が触れ合って、そこから熱が伝わる。相変わらず、この男は印象よりも体温が高い。
「殺してしまったらごめん」
 うっすらと意識がまどろみはじめた頃、彼は薄闇の中で小さくそう呟いた。今、だろうか。それともいずれ起こり得るいつかのことだろうか。考えてもわからずに、私は思考を正反対の方向へとシフトする。
「ねえ、あれ当たったんだよ」
「何が」
「焼き芋メーカー」
「……知ってるよ。それくらい」
 なんだ、知らなかったのは私だけか。これだからこの男たちは嫌になる。私はこの後に及んで彼ら二人をセットで考えていることに気付きながら、明け方の朦朧とした眠りのきわでくらい、許されるのではないかと願った。
 朝になったらここを去る。一度動かした脚はもう麻痺してはおらず、それが叶うことに私は安心し、それから少し残念に思った。少し、本当に少しだけだ。彼の寝息が心地いい。呼吸を合わせ、眠りの底へと沈んでいく。
 拾われた命で、私は彼を否定する。夜が明けても、どこに居ても、終わることなく胸が痛んでも。

20201212

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