novel2



「明日はどこから来るんだろう」
「やはり、東じゃないかな」
 ポエティックな私の問いに、理科のテストのような解答を示したのは隣に立つ黒く大きな男だった。彼は屋上の柵に寄りかかり、ご丁寧にも東の空を指差している。拠点であるこの雑居ビルから見える夜空は、狭いようで広いようで、妙にのっぺりとして現実味がない。都心の明かりが薄ぼんやりと空の端を照らしているが、あれはもちろん朝日でもなければ明日でもない。日を跨いだばかりの都会の空は、夜の暗さを歓ぶように煌々と光りはじめるのだ。
「つまらなそうだね」
「面白かったらこんな場所にいませんよ」
「屋上へ出ようと言ったのは君じゃないか」
「そういうことじゃ、なくて……」
 このビルの、屋上の、彼の隣は、この世界の他の場所と比べればいくらかまともだ。ここはとても都合がいい。見えるものを見えると言って怒る人はおらず、憎いものを憎いと言って諌める人もいなかった。
 室外機の上にぞんざいに置いていた保温ポットから、マグカップに湯を注げば茶色い粉が溶けて混ざり、香ばしい香りが漂う。
「貰えるかい」
「インスタントですよ」
「かまわないよ。元からそんなに高級な人間じゃないんだ」
 嘯く彼の横顔は、けれどどこまでも高貴に見える。人は初めに抱いた印象というものを、そう易々と塗り替えることはできないものだ。聖人のように清廉で、悪魔のように混濁した、夏油傑という不可思議な男に私はずっと畏れを抱いている。
「熱いから気をつけてください」
 二つ目のカップに湯を注ぎ、彼へ渡す。大きな掌がこちらへと伸び、私は彼に初めて会った日のことを思い出した。彼はあの日もこうして私に手を伸ばし「一緒に行こう」と、ただそれだけを言った。私もまた、たった一度だけ頷いて彼の手をとり、その場所をあとにしたのだ。彼の掌は血にまみれ生ぬるく、もう二度と振り返らないだろう背後には、私の母の死体があった。

 マグカップの側面を夏油さんの手が包み込み、指先がわずかに触れる。
 私は思わず大げさに震え、水面をちゃぷりと波立たせてしまった。はねたコーヒーがふちを超え、おっと、と呟きながら彼は滴るそれを支えた。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫。言うほど熱くはないよ」
「沸きたてですよ? 冷やしましょう」
 私はすぐさまカップを室外機へ置くように促して、大したことじゃないと首を竦める夏油さんの掌をまじまじと見つめた。濡れたそこは外気によりすでに冷え、赤らむこともなく、確かにこれといった変化は見られない。
 痛みはしないかとさすってみれば、きれいな造形をした掌は見た目に反し、がさりと乾いていて、まるで木の皮に触れているようだった。硬く、厚く、温度がない。
「怖がられていると思っていたけど」
「え?」
 目を細め、首を傾けながら、彼は私を見下ろしている。
「指先が触れるだけで震えるわりに、こうして不意に撫でさすったりする。君は臆病なわりに、大胆で無防備だ」
 とっさに引っ込めようとした指先を逃すまいと掴みながら、彼はにこやかにそう言った。
「……叱っていますか」
「まさか。ここに君を叱る人はいないよ」
「でも、怒っているみたいだから」
「すまない、怒っているわけじゃない。ただ男というのは、たまにそう見えてしまうことがあるんだ」
「……それは、例えばどんなときに?」
「知りたい?」
 幼少期から情報を遮断されて生きてきたため、年相応の機微がわからない。私が彼に対して抱いている、この体の芯を揺さぶられるような感覚は、畏れなどではないのだろうか。人はこれを何と呼ぶのだろう。どう理解し、どう発散するのだろう。
「やめておこう。君にはまだ少し早いだろうからね」
 彼は僅かな沈黙のあとでそう言って、握っていた私の手を離した。そうして再びマグカップを持ち上げて、薄い唇をふちにつける。私は未だに残るじんじんとした震えを手の内に感じながら、ただぼんやりと減っていくコーヒーを眺めた。
「ゆっくりと知っていけばいい。そうして、なんでも自分で選ぶといい」
 夏油さんは優しくそう言って、東の空を見た。
 その瞬間に、なんでも選べる私の選択肢は一つになった。それは潔いほどの呪いだった。どこへでも行ける自由な私は、きっとこの場所に居続け、彼だけを選び続ける。人はそれを、一体何と──。
 東の空は、先ほどにも増して濁った光を滲ませている。あの場所から明日が来るのだとしたら、それはずいぶんと騒がしく、目まぐるしく、芳しいわけである。
 私のコーヒーはとうに冷め、私の心はいつまでも熱をもっていた。


20210321
#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負 に投稿したもの。
(お題『明日/見つめる/深夜25時半の逃避行』)

- ナノ -