novel2




 呪いはきっと水溶性だ。
 温かな部屋の中で、雨の音を聞いていた。談話室には男が一人。少年と呼ぶには背が高く、青年と呼ぶにはガキ臭い目をした同級生だ。彼はカウチに長い脚を投げ出して、頭の後ろで手を組んでいる。
「んなわけねぇだろ」
「そうかな?」
「水ぶっかけて死ぬなら世話ねえわ」
「呪霊じゃなくて、呪いだよ。人間、シャワー浴びてお湯につかったら大体の悩みが薄れるものじゃない」
「お前だけだわ。そんな便利な作りしてんの」
「そうかな?」
 私は疑問符を繰り返し、今日の出来事を振り返る。幸い死人は出なかったが、多くの血が流れいくつかの傷が残り、またそれらは綺麗に反転し、塞がっていった。硝子の反転術式は日に日に精度を増していく。砕けた骨はぴたりと繋がり、潰れた内臓は艶やかに膨らむ。そしてすべてが元どおりだ。負った痛みや、抱いた恐れを除き。
 私は腹に手を添えながら、先ほどまで空いていた穴のことを思った。前方の大群を祓った瞬間、後方の残党に貫かれた傷だ。切っ先は内臓をかすめ大げさなほどに血が出たが、目の前にいる男と、すでに自室へ戻った女のおかげで、今もこうして息をしている。
「ふざけんな、まじで」
 彼は方向性の定まらない愚痴を天井へ向けて吐き捨て、それから逃れるように寝返りをうった。はみ出した脚がどたっと床へ落ち、通りすがりの後輩が振り返る。
「ありがとね。五条の足がなければ死んでたかもしれない」
「かもじゃねえよ、確実だろ」
「雨が降ってたから」
 血の広がりが早かったのだ。確かに絵面としては凄惨なものだった。けれど、いまだに目を覚まさない補佐官と比べれば大分ましだと硝子は言っていた。「疲れたから私は寝る。あんたも早く寝たほうがいいよ」彼女はそう告げ、重い足取りで部屋へと帰っていった。彼女の消耗も相当なものである。
 そして私も、怪我人であることに変わりはないらしい。欠損したはずの部位が後になって痛むように、脳が回復についてゆけず、錯覚を起こすことがあるという。それだけ反転術式というものは生物にとって無理のある施術なのだ。
 私は感じた痛みを思い出さないように、わざと軽い口調で相槌をうった。五条はそれが気に食わなかったのか口をへの字に曲げていたが、さすがにそれ以上の追撃をする気はないようだった。彼は言いたいことをなんでもかんでも言うようで、その実こうして飲み込むことも多い。彼の内側には宇宙があるため、なにを飲み込んでも平気なのかもしれない。──否、それこそ錯覚だろう。
「心配しないで。温かいシャワーを浴びたら平気になる。悪いものは全部、流れるから」
「んなわけねぇだろって。なんもかんも、こびりついて落ちねえよ。そんでいつか手遅れになる」
「それは誰の話?」
 目の前の男と、部屋へ戻った女。そして空いた穴のことを思いながら、私は聞いた。元どおりになるものと、ならないもの。ふさがる穴と、ふさがらない穴。もういない男。もどらない時間。
「言っとくけど」
「はい」
「俺はさっきからお前の話しかしてない」
「そうだね。ごめん」
 五条が珍しく小さな声を出したので、私は申し訳なくなってうつむいた。私は私を守るために、すべてを水に流そうとしてしまう。呪いも愛も、痛みも後悔も、長く溜め込んではおけないのだ。
 だからしっかりと掬い上げて、その手のひらで包み込み、丸め、圧して、固めて欲しい。すべての瞬間が水に溶けて消える前に。
「お腹、いたい」
「……このへん?」
 五条の大きな手のひらが私の脇腹をさする。雨どいをつたい水の落ちる音がする。
 もう痛まないはずの腹が痛み、私はほっとして膝をついた。まだ、鮮やかに思い出せる。


#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負 に投稿したもの。
(お題『シャワー』)

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