novel2







生きているならその足で立って。


あなたは幽霊


 部屋の明かりがついているのが見え、おや、と思った。出かける時はいつも電源の類を確認するし、そもそも朝から電気をつけて出るはずがない。実家から母が来ているのかとも思ったけれど、合鍵は渡していないためやはり変だ。仕事帰りのまとまらない思考をこねくり回しながらアパートの階段を上ったところで、そういえば近頃は防犯パトカーの巡回が増えているな、と思った。気楽な一人暮らしは性に合っているけれど、こんなときにはたまらない心細さを感じる。わざわざ友人に助けを求めるのも気がひけるし、警察はそれ以上にハードルが高い。きっと何かの間違いでスイッチが入ってしまったのだろうと、自分を無理やり納得させ鍵を回した。施錠はしてある。そもそも泥棒なら電気などつけないだろう。
 見渡すまでもない1Kのドアを開けると、部屋の端、ベッドの前に黒い影が見えた。それはよく見知った形をしている。緊張感に速まっていた鼓動が、今度はべつのリズムで駆けだした。いつもより熱い血がぐるぐると頭の方まで上っていく気がして目がかすむ。こんな日が来ることを望んでいたし、いつかこうなるだろうという覚悟もしていた。それなのにいざ目の前にすれば、どうしようもない脱力感と焦燥感が襲うばかりだった。唇が震えている。
 うつむいてスマートフォンをいじっていた彼は、とっくに気付いていただろうに、ゆっくりと顔を上げ「ああ」なんていう声を出した。
「……」
「遅かったね。仕事変えたの?」
 何も言えない私をさしおいて、なんともない風に聞いた男は折原臨也その人だ。付き合いばかりが長い私の想い人。さんざんぐだぐだと人の心をかき乱しておいて、或る日突然姿を消した大バカ者である。自分の部屋だというのにこの上ない所在なさを感じた私は、回りすぎた血流を落ち着けるためひとまず無視を決め込んで、洗面所へと入った。
 顔を洗い化粧を落とし、疲れ気味の自分の顔を見つめる。こんなに耳の裏がどくどくと鳴っているというのに血色が悪い。彼がいなくなって三年。生死もわからず呆然とするには長すぎる時間だ。私のやつれの何割かは彼に対する心労からくるものなのだから慰謝料をもらいたいものだと思った。実感が襲い涙腺がゆるむ前に、顔をひきしめ部屋へ戻る。そのまま彼の方を見ずに冷蔵庫へ直行し、薄めておいたカルピスのボトルとりだした。グラスに注ぎちびちびと口に含む。臨也の立ち上がる気配がしてぎゅっと肩に力が入ったが、彼はそのままベッドに横たわり、壁の方を向いた。静かな部屋に時計がちくたくと鳴っている。
 こんな風にしているとまるで昨日も一昨日も一緒にいたみたいだ。彼の見た目はちっとも変わらない。おかしな感覚を振り払うように部屋へぐるりと視線を回すと、壁際に見覚えのないものが立てかけられていることに気づく。杖、だろうか。そばへ寄って眺めていると臨也が寝返りをうった。その様がなんだかしんどそうで、胸が痛む。
「変えてないよ。立場が変わっただけ」
 私はようやく彼の質問に返事をし、ため息をついた。三年経ったのだ。役職だって変わる。
「……見えてないのかと思った。自分が死んでいるのかもしれないと不安になったのは初めてだよ」
 彼は寝転んだまま私を見上げ、そんなことを言う。死んでなんていない。だからこうして戻って来たんじゃないか。けれど、こちらの都合も考えずに現れたり消えたりするのだから、やはり幽霊と一緒だ。死んだように生きているなんて言うわけではないが、生きているのにこうも実態が掴めないのだから彼の魂は半分くらい死んでいるのかもしれない。あの凄まじい殺し合いを経たことにより。
「元気そうだね」
「そう見える?」
「とりあえず手足はくっついてる」
「かろうじてね」
 見下ろす私から目をそらし、彼は天井を見つめた。よく見ればだいぶ痩せたようだ。顔色もそう良くない。どこにいたのだろう。何をしていたのだろう。どうして戻って来たのか。なぜ会いに来たのか。わからないことはたくさんあったけれど、聞く気になれずやはりため息になった。
「来ない方がよかった?」
 ずるいくらい儚げな声でそう聞かれ、こらえていた涙がにじんだ。彼は同情をかうために哀れな演技をする男ではない。少なくとも私の前ではそうだった。つまりは本当に弱っているのだと思う。恥も外聞も捨てこうして会いに来たのだから、何も聞かずに受け入れるのがよくできた女というものだろう。けれどあいにく私はそこまでよくできていないため、急にいなくなったことに対する怒りや悲しみを、再会という感動で打ち消すことはできなかった。
「臨也のことは、もう嫌いになった」
「……」
「勝手だし、腹立つし、理解できないし、考えてみれば愛せる要素なんてまったくなかった。三年かかってやっとそのことに気づいたんだよ。なのに今さらのこのこ帰ってきて、不法侵入して、人のベッド陣取って、来ない方がよかったって? あたりまえでしょ! 私は臨也がどこかでのらくらしてる間も、一生懸命働いて昇進して社会的な生活をしてきたんだよ! 疲れてるの! これ以上、神出鬼没の幽霊みたいな男に振り回されて人生を無駄にしたくないの! わかる?」
 口から生まれたような臨也に対し、ここまで一方的に言葉をまくしたてたのは初めてのことだった。自分の腕を握りしめて、つま先を見ながら言い切る。良く言った、と思う一方で、言ってしまったという圧倒的な後悔がはやくも押し寄せていた。いつのまにか背を起こした臨也は、じっと私の方を見ている。その表情を確かめるのが怖い。けれど予想はつく。彼はきっと笑っている。
「わかるよ」
 穏やかにそう言って臨也は一度息を吸った。ベッドのスプリングがきしむと同時に、呻くような声が聞こえ思わず顔を上げてしまう。彼はやはり笑っていた。痛みをこらえるように少しだけ眉をよせながら、小さく口端を上げている。私の知っている彼の表情の中には無い笑みだ。私の生活が変わったように、あれからの歳月の中で彼も変わったのだろう。当たり前のことだ。そしてどうしようもなく、愛しいことだ。
「ねえ、手を貸してくれない? 一人じゃ立てないんだ」
 足が動かないのか、臨也は言いながら私に向かって手を伸ばした。
 一人でなんて立てないくせに、いつだって一人でどこかへ行ってしまう彼が憎らしくてしょうがない。けれど私はその手を掴む。不自由な彼の体を支えきれないことなんて百も承知で、もつれるように倒れこんで、一秒。
 こぼれた涙を彼の服に染み込ませ、これからのことを思った。随分と都合のいい話だ。でも仕方がない、池袋という街には昔から都合のいい話ばかりが転がっているのだ。半分死んだ男を抱えながら目を閉じる。すべての因果を飲み込んで、都市伝説のような恋を、今日も君と。

Dear my sweet ghost.

material from Raincoat. | 16.04.22 tsujico

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