novel2







彼のことを語るには、私は彼を愛しすぎたのだと思う。


君のいない街


 いつも通りに暮れていく繁華街の空の下で、ストローを吸ったり噛んだりしていた。この店のカフェオレは甘い。窓の外にはとりどりの傘が揺れている。イロもカタチも様々で、まるで人々の心を映しているようだ。だから雨降りの日が好きなのだと、彼は言っていた。人の持ち物や服装は、時に表情以上に内面を引きずり出すのだと。そういえば──彼が傘をさしているところは、見たことがない。
 彼がなんと言っていたか、彼がなにを着ていたか、彼がどんな顔をして、どんな声を発したのか。それらはありありと思い出せるのに、では彼がどんな人間だったのかと問われると、急に言葉が出なくなってしまう。優しかったような気もするし、酷かった気もする。胸が焼け焦げるほど好きだった一方で、その炎の出処は憎しみだった気もする。わかっているのは、私と彼の間になんらかの愛があったということだけだ。私は彼を愛していたし、彼は私を愛していた。どのような愛だっていい。愛について語れるほど、私はまだ大人ではない。
「あなたも不毛よね」
 黒い髪を揺らして、彼女は言った。以前より少し短くなっただろうか。髪は女の情念だと誰かが言っていた。時を経ているはずなのに、彼女の美しさには少しの曇りも見られない。
「波江さんに言われたくないですよ」
「失礼ね、私は不毛じゃないわ。誠司が生きているということが、私の生きる理由であり目的なのよ」
 情念もまた、毛ほども薄れてはいないようだ。私はあの頃と比べて少しだけ伸びたえりあしに触りながら、「変わってませんね」と笑う。彼女はそれをどう受け止めたのか、わずかに気まずそうな顔をして目を伏せた。信号が青に変わり、また傘が交じり合う。
「……あいつは?」
「なんの音沙汰も」
「……」
「死んだって噂も聞きません」
 フォローのように付け足すと、波江さんは眉間の皺を深くして横断歩道をじっと見た。きっと臨也なんかのことを気にかけてしまった自分に腹を立てているのだ。彼や私に同情するほど、彼女の興味対象は広くない。
「波江さん、今は日本ですか?」
「またすぐに戻るわ。いいように遣い走りさせられてうんざりよ。いつかあの胡散臭いマスクを引き裂いてやる」
「臨也に雇われてた時だって、大概だったじゃないですか」
「……あの頃と比べれば、少しはマシね」
 あの頃──そう、あの頃はいろいろなことが最悪だった。
 煮詰まると同時に膨れ上がったすべてのことが、臨界点のすれすれにまで達していた。それを最良と捉える臨也のような人間もいたけれど、結果彼は重傷を負って姿をくらませたのだから、戦局を視る目があったのかどうかは疑問だ。
 そんな崩壊前夜といえるあの晩に、私は彼に電話をした。「大丈夫なの?」という漠然とした問いに、彼は笑いながら「どうかな」と答えた。受話器越しに聞くいつになくからっとした声に、どうしようもない無力感を覚えたことを思い出す。きっと彼はもう手の届かない場所にいるのだと思った。電波の悪いその通話から感じたのは物理的な距離以上に、精神的な距離だった。いつでも人より先を視ている彼が、今だけを見て、今に全てを賭け、なにかを成そうとしている。あんなに渇望していた未来を度外視してまで。
「切るよ」という言葉通り、彼はあっけなく通話を切った。心に未練を残さないためだったのか、彼なりの戒めか、もしくはただ単に時間を惜しんでのことか、今となってはわからない。あの時、彼は通話口の向こうでどんな顔をしていたのだろう。いつものように余裕の笑みを浮かべていただろうか、それとも──。
「もう行くわね」
「はい。お気をつけて」
「……あなたも」
 波江さんはカウンターの椅子を引き、細いヒールをカツンと鳴らした。彼女にしては珍しく、なにかを言い淀むような表情をしていた。私はそれを見て、彼女のことを誤解していたのかもしれないと思う。自分で言っているほど、他人に関心がないわけではないのかもしれない。
「いつまでもそんなところに座っていちゃ、駄目よ」
 彼女は背を向けたままそう言って、静かに階段を降りていった。
 陽の落ちたガラス窓に自分の顔が映り込んでいる。彼はよく、この場所から街を見下ろしていた。一体なにを見ていたのだろう。なにを感じて、なにを憂え、なにを愛していたのか。私に彼の気持ちはわからない。同じものを見ることもできない。けれどせめて。
「探すくらいさせてね」
 彼はきっと傘をささず、フードをかぶって歩くのだろう。だから私は雨降りの日が好きだ。きっと一目でわかる。
 そう思ったのに、いつの間にか雨は止み、人々は傘を閉じてしまっていた。ため息をつき立ち上がる。いつまでも、こんなところに座っていてはいけないことくらいわかっている。立ち上がり、歩き出さなければならない。
 やたらと高いコーヒー代を払い、私も街へ出た。濡れたコンクリートと排気ガスの匂いがする。酷いものだけれど、彼の愛した街だ。しかし、どうにも街の方はつれない。一人の男を失っても、池袋はそしらぬ顔で夜を迎える。何度でも繰り返すのだろう。ネオンの光にはさまれて月がきゅうくつそうにあたりを照らしていた。
 飽きることなく歪みつづける、君のいないこの街を。

This town has lost him.

material from Raincoat. | 16.04.22 tsujico

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