novel2



 気圧の変化や睡眠不足。そんなものが重なり、私はみごとに体調をくずした。
 昔から熱が出やすいタイプではないため、普通の人が微熱という程度のものでもこうして動けなくなるのだ。ふがいないとは思うが無理をして長引かせることは避けたい。明日の午後には、なんとしても回復していないと困る。 
 ガチャリとくぐもった音が聞こえ、薄眼をあけた。
 玄関の開く音がいつもと違って聞こえるのは熱のせいだろうか。コンビニの袋が揺れる音すらみょうに耳に痛く、布団の中でひっそりとため息をつく。きっと私のためのあれこれが入っているというのに。ありがとう、と起きあがろうとしたのに声が出ず、力もうまく入らなかった。
 そのままぼんやりと動く影を見つめていると、私が寝ていると思ったのか、彼は部屋の明かりをつけないまま、そっとこちらへ近寄って「寝てるね?」と聞いた。返事を必要としないその質問は、独り言にちかいものなのに、あまりに優しい響きをしていて胸がくるしくなる。なんとなく彼の優しさを無下にしてしまう気がして、私は寝たふりをしながら呼吸をととのえた。
 規則正しく、一つ、二つと息をする。体が心を弱らせるのか、幼いころに戻ったように心臓がどきどきと揺れている。
 こんなときはいつも家族がそばにいてくれた。そばにいてゆっくりと──そう、こんなふうに頭を撫でてくれたのだ。汗にぬれた前髪を左右にはらい、冷え性の母は冷たい指先を額にのせてくれた。冷え性でない彼の指がこうも冷たいのは、外が寒かったせいだろう。遅くまで練習をして、疲れて帰ってきたのに、真冬の寒空の下を私のためにもう一往復してくれたからだ。
 呼吸にあわせてすべる指の動きが、くすぐったくも心地よく、私は寝たふりをする必要もないくらい深々と眠りの底へしずんでいく。昔は家族がそばにいた。そうして今は、この人が隣にいてくれる。そうだ、私は彼と──。
 なにかとても大事なことを思い浮かべる前に、脳は電源を落とし、思考がとだえる。



「いま何時……?」
 目が覚めたとたんそればかりが気になって、私はいきおいよく背を起こした。おどろく徹の姿を認めたあと、遅れてやってきた目眩にうなだれる。
「ノーモーションで起き上がるのやめて、びっくりするから」
「だって……」
「まだ熱あるでしょ。あると……思うよ。お前平熱低いからわかりづらいけど」
 私と自分の額に手をあてながら、彼はあいまいに首をかしげる。代謝がよく体温が高い徹と、血圧も平熱も低い私では、比べれば彼のほうが熱いくらいだけれど、たしかに発熱時特有のふしぶしの怠さはまだとれていない。
 私と彼の体質はなにもかもが正反対と言えるほど違っているので、お互いを慮ることは難しかった。低空飛行で地道に生きている私と違い、彼は風邪を引くときだって派手だ。子どものようにあっという間に高熱が出て、滝のように汗をかき、翌日にはけろりとしている。
「寝てな寝てな。ご飯は食べれたんでしょ? お前が臥せってるなんて珍しいからびっくりしたよ。連絡くれたら早く帰ったのに」
 仕事の繁忙期にきりがついたこのタイミングが危ないと、頭ではわかっていたが体の方は追いつかず、会社を早引けした私は刻々と悪化する体調にうなだれていた。メールをしようかどうしようかと迷っているうちに日が暮れてしまい、なんとか夕飯を済ませたものの、彼が帰ってくるころには虫の息となっていたのだ。
 部屋に明かりがついているときは「ただいまあ」と玄関に入るなり今日あったことをべらべらと話しまくる徹だけれど、クロークにコートをかけながら「同期の前田のバウンド球が後頭部に直撃して久しぶりに岩ちゃんを思い出した」というあたりまで話したところで、私の相槌がないことに気づき、悲鳴のような声をあげた。
「どうしたの!」
「……か」
「か!?」
「からだがうごかない」
 ベッドに倒れ伏す私にかけ寄り、彼は一瞬慌てふためいたあと、素早く私に毛布をかけ、コップに水を注いだ。マイペースに見えるが強豪校で主将をやっていたほどの人である。判断力や対応力は高いのだと、朦朧とした頭で感心した。
「とりあえず保温しなよ。なんで布団の上に寝てるの」
「めくるのおっくうで」
「病院行く?」
「いい、寝る」
「ご飯は?」
「たべた」
「薬は?」
「のんだ」
「バナナは?」
「……バナナ?」
「風邪といったらバナナだよ。バナナ食べなきゃ」
 育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない。むかし誰かがそう歌っていたけれど、もっさりとしたものを食べたい気分ではなかったため適当に断る。徹はひととおりバナナを勧めたあとで「コンビニ行ってくる」と言い、靴を履いた。

 それからうなされること数十分。眠れもせず悶々と過ごしていたところに帰ってきた徹は、騒々しい初動とはうってかわり、慈愛に満ちた雰囲気をまとっていた。
 この人にはそういうところがある。末っ子じみた天真爛漫さをみせたかと思うと、兄のような、父のような、母のような包容力を発揮する。私はそれに身を任せ、姉になったり、妹になったり、娘になったりすればいいのだ。私たちはそうやって役をかえ立場をかえ、互いを慈しみあっていた。
「ごめんね、明日行こうって言ってたのに」
「いいよ。それよりバナナ食べる? 新鮮なの買ってきた」
「……じゃあ、一本」
 悪気のないバナナ攻撃に押し負けた私は、仕方なく一本受けとり皮をむく。きっと、これからだってこういうことはたくさんあるのだと思う。良かれと思いしてくれたことを鬱陶しく感じたり、相容れない価値観に苛々することがあるだろう。私だって、きっと知らずになにかを押しつけている。
「紙くらい、いつでも出しに行けるって」
「でも、せっかくだから私の誕生日にって」
「それはそれで、お祝いの数が減っちゃう気するしさ」
 すっかり書き込み終わった二つ折りのA3用紙を眺めながら、彼が言う。久しぶりに二人のオフが重なった土曜日の午後に、役所へ出かけ、帰りにすこしだけ奮発したディナーを予約しようと決めたのは先月のことだ。そっけないプロポーズだったけれど、私たちらしいと笑いあい、明日という日をずっと楽しみにしていた。
「明日は一日、家でゆっくりしよ。結婚の前にまず、誕生日を無事生き抜けってことだよ。お前が元気じゃなきゃ意味ないんだから」
 寝転がって横を見る。床に座っている徹のえりあしが、ちょうどすぐそばで揺れている。撫でつけてもふわふわと跳ねる柔らかなくせっ毛は、ゴールデンレトリバーの尻尾のようだ。あまり家庭的な風貌とは言えない。けれど人好きをする見た目ではある。人ったらし、と言ってもいいくらいだ。
「これ袖がさ、もうへろへろ」
 彼は急に話題を変えると、弛むようにのびた袖口を見ながら眉を下げた。良いことを言ったあとに、照れ隠しのように話をそらすのは彼の癖だ。
「ほつれた?」
「いや、よれた」
 量販店のカットソーですら彼が着れば様になるが、たしかに、そろそろ替え時なのかもしれない。私は大事な話題をひとまず置いて、返事をする。着古した部屋着は二人の月日の象徴だ。紙一枚で変わることはないのかもしれないし、けれどやっぱり、なにかが変わるのかもしれない。やってみなければわからないことだ。
「電気消すよ。眠れそう?」
「うん。バナナ食べたらまた眠くなってきた」
「でしょ」
 彼は嬉しそうに目を細めている。気が進まなかった提案も、こなしてみれば悪くない。適度な糖分と腹もちのおかげか、気持ちがゆったりと和らいでいた。
「あ、ちょっと待って。洗濯物だけたたませて」
 徹は電気の紐から手を離すと、そう言ってとりこんだままのシャツや靴下を、洗濯ばさみから外しはじめる。あくせくと働く彼のえりあしを眺めながら、見慣れた部屋がいつもとは違う鮮やかさをもつのを感じた。
 袖口や、タンスの角、茶碗のふち、日に焼けた床。そんなところに小さく宿る二人の今までとこれからが、うるうると滲み世界を彩っている。
 こんな小さな部屋だって、ともに暮らすと決めたあの日の私たちにとっては、世界そのものだった。私はこの部屋に平和をもたらす指揮官で、彼は六畳二間の英雄なのだ。英雄は洗濯物を高くかかげ、靴下のデニールの違いをたしかめている。組み違えると、私が出勤前に不機嫌になることを知っているのだ。
 炊事と掃除はかわりばんこ。ゴミ出しや水やりも当番制だ。互いに得手不得手はあるけれど、ローテーションがよかろうという話にまとまったのは、キッチン周りの掃除に嵌った徹が水アカを気にして料理に制限をかけたことがきっかけだった。本末転倒だと大喧嘩になり、水場の掃除は私の流儀でと認めてもらったかわりに、私は靴下を重ねてしまわないことを約束した。彼の家ではくるくる折りが主流らしい。
 そんなふうにして結ばれたルールは、二人だけが知るささやかな約束ごととして、この小さな世界の調和をたもっている。
 一つ一つと思い出しながら、数えてみる。風邪で弱った頭は私に簡易的な走馬灯をみせていた。明日からもつづくこの生活を、生まれ変わったよう新鮮に見せる走馬灯だ。
「なに笑ってるの」
「くるくる折り、すっかり慣れちゃったなと思って」
「は? え、なんの話」
 徹はさっぱりわからないという様子で首をかしげ、もう一度私の額に触れた。熱が上がったと思ったようだ。
「二人のルールを思い出してただけだよ」
「よくわかんないけど、ルールといえばもう一つ」
 大きな手のひらが、また前髪をかきわける。
「具合悪いときは、すぐ俺に連絡すること」
 英雄はそう言って頼もしく笑った。
 約束ごとがまた増えて、世界の密度がすこし増す。大げさだろうか。でもきっと風邪を引いていなくたって、二人のこれからが劇的なことに変わりはない。
 誕生も、約束も、慈愛も、喧嘩も、なに一つとりこぼさずに刻んでいく。
 私たちはささやかでいて壮大な、歴史をつくっているのだ。

HQ家族夢アンソロ『Famille!!』さま寄稿 2017

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