You're gonna be the one
that Saves me.
彼のことを、初めて怖いと思った。
喜怒哀楽の出し惜しみをせず、屈託なく泣き、笑い、怒る彼が、今は嘘のように表情を消している。その顔はぞっとするほど整っていて、浮かべられる表情こそが彼の親しみやすさだったのだと思い知る。薄暗い講堂で影だけを顔に貼り付けているこの男は、本当に私の知る及川徹なのだろうか。明かりをつけたかったけれど動くことができず、私はそろそろと肺に空気を送った。呼吸すら、彼の許可がなければできない緊張感があった。
「怒ってる?」
それなのに、私の口から出たのはそんな馬鹿げた質問だった。
彼はやはり無表情のままじっと私を見た。見下ろされている。見定められている。高い位置からの視線をひしひしと感じて息がつまる。身長差があるわりに、普段そこまでの圧迫感を感じないのだって、彼の気遣いあってこそなのだ。自分よりも圧倒的にたくましい体に安心感だけを抱けていたのも、猛烈な意志の強さを格好いいと思えたのも、ひとえに彼が私に好意を抱いていると、安心していたからだ。しかし今はどうだろう。好意どころか、彼は私に敵意を持っているようだ。とても本能的で、動物的な敵意を。
「怒ってる?」
彼は私の問いをそっくりと復唱し、すこしだけ口角を上げた。形だけの笑顔をつくったことで、表情の冷たさはますます際立った気がした。うっすらと細められた目は決して笑っておらず、部屋の暗さも相まって瞳孔がくっきりと開いて見えた。本当に綺麗な顔をしている。そんな現実逃避も大した気休めにならない。
「お前はどう思うの」
「怒らせてると、思う」
彼は怒っているし、怒る理由がある。
"徹を裏切ったかもしれない" 私が発したその言葉の意味を、彼は瞬時に理解していた。彼が私を好きになって、私も彼を好きになって、そうして付き合い始めたというのに過去が心から消えてくれない。私に振り切れない想いがあることに、彼はずっと気づいていた。
「俺より好きな男がいるってこと?」
「……違う。と思う」
「思う?」
繰り返す徹の声はとても静かだ。けれど正答以外をじわじわと削ぎ落としていくような鋭さもあった。間違えることは許されない。正直に、誠実に答えなければ取り返しのつかないことになる。彼が本能で私を追い詰めるように、私も本能的にそれを察していた。強い生き物を前にしたとき、弱い生き物は相手以上に感性を研ぎ澄まさなければならない。
「高校のときに付き合ってた人と会ったの」
「へえ」
「偶然だけど。それで……」
打ち明けたもののそのあとの言葉がつづかず、必要以上に意味深な間があいてしまう。言いよどむ私を見て、彼の発する空気はますます張り詰めていった。敵意というよりも殺意に近いものを瞳に宿し、それでも泰然自若として腕を組んでいる。私にとどめを刺すことなんていつでもできると言っているようだった。
「やったの?」
笑みのようなものを浮かべながら、彼が聞く。
「してないよ」
本当のことだ。けれどもし相手にその気があったら、私は拒めていただろうか。あのときの私は、まるで催眠術にでもかけられたように過去の男に翻弄されていた。彼との恋愛にはたくさんの後悔があったため、突然の再会に頭がついていかなかったのだ。でもそんなのは言い訳だ。今だってまた、えもいわれぬ迷いに飲み込まれそうになっている。この気持ちを断ち切ってくれるならいっそ殺してくれてもかまわない。ゆっくりとこちらへ伸びてくる徹の大きな手を見て、そんなことを思った。指先がぴたりと首に触れ、彼のまとう熱が伝染する。元から体温の高い彼の体が、今は燃えるようだ。
「それを俺に言うってことは、俺と別れたいってこと?」
「違う。ただ、隠しておけなくて」
はっきりと言葉にしたら関係を変えてしまう事実を、この先ずっと隠し持っていく自信がなかったのだ。それが一時的なものでないと、私にはわかってしまったからだ。過去のことなんて互いに知りたくはないし、二十歳を越えれば上手に割り切るフリくらいはできる。そう思ってきたのに、一度の邂逅が私の心を打ち崩した。
「……ずるいね」
「ごめん」
「もし、浮気してたら」
徹は滑らせた指先で私の前髪をかきわけて、まっすぐに目を見つめた。
「許さないよ。ずっと許さないと思う。けど、手放したりもしない」
今日に限って講堂内に生徒が入ってくることはない。それどころか周囲に人の気配は少しもなかった。広いキャンパスにはたくさんの学生がいるはずなのに、ここは隔離されたようにしんとしている。
彼は片手に教材とファイルを携えたまま、長いあいだ私の目を覗いていた。私はキスをするときのように顔を上げ、それを受け止めつづけるしかなかった。彼のただならぬ意思が頭上からとくとくと注がれていくようだ。体がだんだんと重くなっていく。
「お前の中に特別な男がいて、そのことでお前が苦しむとしても、俺はお前を手放したりしないよ」
「徹、私が好きなのは、徹だよ」
「知ってる。けど"好き"なんて軽いよ」
息ができない。注がれたなにかが胸のあたりまで溜まってきて、溺れそうだ。
「お前はそいつを憎んでるんでしょ。忘れられないくらい、ずっと」
「……」
「俺もひどいことをすればいい? 手ひどくふって、他の女のところに行けば俺もお前の特別になれるの?」
「そ……」
透明だった彼の顔に、じわじわとにじむように表情が浮き出て、それがあまりに悲しそうだったため私は今度こそなにも言えなくなった。
報われなかった想いは、今ある幸せよりも強いのだろうか。そんなはずはないと思いたい。けれど過去はなくせない。違う人生を生きて、違う人を愛してきたから、時折りとてつもなく傷つけてしまうのだ。
ほがらかな彼のもつ常軌を逸した所有欲で、私のことを縛りつけ、もうどこにも行けないくらい強く括ってくれないだろうか。たとえそのままくびり殺したっていいから。