ao no tamari
日が落ちるのが遅くなり、部活の終わる時間になってもまだ校庭はぼんやりと明るんでいた。水の底にいるような初夏の青い夕方は、永遠につづくかのように長い。
「及川、自主練?」
「そー。けどちょっと休憩」
スクイズボトルの水を飲みながら休んでいた及川は、その日の練習に納得がいっていないのか、難しい顔をして遠くのネットを見つめていた。体育館へむかう通用口には涼やかな空気が流れている。寒くなく、暑くなく、少しだけしめっていて気持ちがいい。夜になればまだ冷える季節だけれど、運動部のメンバーはみなTシャツ一枚を着て身軽そうにしている。
「名字は仕事?」
「うん。申請があった備品のチェック。得点板ぼろぼろだね」
「熱心だね〜。そうなの、強豪私立っていっても意外と倹約しててさ」
「いいことだよ。部費上乗せで通しとくけど。予算部の運営、生徒に任せっきりなのもどうかと思うけどね」
「うちの生徒会はしっかりしてるから」
穏やかにそう言った彼は、腰に手をあて、半分うわの空の顔をしてやはりネットを見ている。きっと頭の中で自分の動作をシミュレーションしているのだ。教室にいるときはいつも気易い雰囲気をまとい、愛嬌たっぷりに振るまう彼だけれど、放課後に見るときはいつも自分の世界に深く没頭している。主将である彼がこうして常に真剣だから、うちのバレー部はみな引き締まった顔をしているのだと思う。活動柄いろいろな部を見て回るけれど、強いと言われる部活はやはり雰囲気が違っていた。そういうものを保つのはきっととても大変なことだ。少人数の生徒会ですら、全員が一つの方向をむくのは難しいことなのだ。
「及川、まだ残るの?」
「もう少し。そっちも?」
「うん。会長だけに任せてらんないからね」
「がんばって副会長さん」
励ましてくれた彼に笑いかえし、校舎への道を戻る。数歩過ぎたところで振り返ると、彼はもう笑ってはおらず、張り詰めたような顔をしてじっと足元に目を向けていた。日が落ちてから夜になるまでのこの狭ですら、貪欲に成長を試みる彼の姿はなんだか見ていて胸が痛むほどだ。私からすれば完璧のように見える人気者の及川徹でも、手に入らないものはやはりあるらしく、彼の切実さがふいに自分とシンクロして苦しくなった。しいしいと五月の虫がないている。一つだけ残った生徒会室の明かりを見上げ、私は大きく息を吸った。
生徒会長が壇上に立ち、なんとなく間延びしていた朝礼の空気が引き締まる。半年前の生徒会選挙で選ばれた隣のクラスの優等生は、圧倒的な大差で他候補者をおさえただけありなかなか雰囲気のある男だった。スポーツにおける頭の回転をほめられることは俺もあるけれど、彼の頭の良さはそれとはだいぶ違って見える。こういう人間が東京の有名大学へ行って、そのまま代議士や政治家になるんだろうな、なんて想像が難くないほどだ。
「ファンいるらしいぜ」
「そりゃかっこいいもんね」
「じゃなくて、副会長」
部活動へのバックアップ体制の強化を述べる彼の後ろで、姿勢を正して座っているのは俺もよく知る名字だった。二年のときは同じクラスで、部活ばかりで提出物や授業課題を平気で忘れる俺をいつもきびきびと導いてくれた。同い年とは思えない、しっかり者のお姉さんといった感じだ。
「……凛々しいよね」
「うちの生徒会は頼もしいよな。来年の選挙も大変そう」
代々選りすぐり人材でかためられる青城高校の生徒会は、その一員に加わりたいと憧れる生徒も多く、選挙はいつも激戦だった。今年は会長、副会長とも申し分ない二人が選ばれたため、求心力が増しているようだ。来期の倍率はさらに上がるかもしれない。
「けど副会長、会長とデキてるって」
「そうなの?」
「噂だけど」
「……名字はそういう感じしないけど」
俺はなんとなく彼女のことを貶された気持ちになって、よく知りもしないのに否定した。
「そういう感じってなんだよ」
「わかんないけど、そんな浮ついた気持ちでやってないでしょ」
単純なクラスメイトは「たしかに、真面目そうだもんな」と言ってその話を終える。決議承認の拍手をしながら、俺は今日もぎりぎりまで自主練に励んでやろうと決めた。
自分に納得をする、というのは本当に難しいことで、負けず嫌いの俺はいつも不完全な自分と内心で喧嘩ばかりしている。それが顔に出ているのか、自主練中は怒っているのかと聞かれることが多い。怒っているというより悔しいのだ。けれどもう高三で主将なのだから、最近は柔和な雰囲気をたもつことを意識している。
サーブのキレはいつもよりいいのに、どうしてもエンドラインを割ってしまうためいつまでたっても自主練を終えることができず、俺は体育館を出た。練習に行き詰まったときは気持ちを切り替えるため、一度外へ出てイメージトレーニングをすることにしている。水分補給をして背筋を伸ばす。視線の置き場が悪いのだろうかと、コート上を思い浮かべながら薄目で見た景色の端に、ふと見知った影を見つけ声をかけた。
「今帰り?」
「……及川」
名字はゆっくりと振り向いて、まぶしそうにこちらを見た。もうあたりは青く陰っているため、体育館の明るい照明が眩しいようだ。
「一緒に帰らないの?」
「うん。私はちょっと……ええと、ちょっとね」
彼女はめずらしく言い淀みながら、困ったように眉を下げた。彼女の後方で校門の方へと歩いて行くのは生徒会長と、たしか書記の二年だ。その仲むつまじげな距離感を見て、俺はいろいろなことを察する。
「名字、会長と付き合ってるって噂されてた」
それなのにわざわざこんなことを言うのは意地が悪いだろうか。
「付き合ってないよ」
否定した名字の声はいつもどおりのはっきりしたものに戻っていて、それが余計に痛ましい。
「付き合ってない。私の片想い」
彼女は絶対に言わないと決めたことを、今ここでだけ口にする、という表情でそう言った。聞いてしまった俺は、なにかとんでもなく重い役割を担ってしまった気がして、けれどそのことに無性に高揚してもいた。腹が熱くなるような優越感を感じている。それと同時に腹が立った。「浮ついた感じはしない」なんて軽はずみに言ったことを謝りたい。いつもの気丈な雰囲気をくずし、ぼやけた顔で笑っている彼女の気持ちが浮ついたものだなんて誰に言えるだろう。彼女の仕事への熱意は本物だし、そこに切実な恋心が添えられたからといって、価値がにごったりはしないのだ。
「そうなんだ」
俺はなんとか相槌をうって、それから息を吸った。嫌になるほど爽やかな夏の匂いが胸を満たし、ぽっかりと穴のあいたような気持ちになる。初夏の夕闇はとても優しい色をしているのに、どうしてこんなに渇望感にあふれているのだろう。みんながみんな手に入らないものばかりを欲している。俺の中にもう一つ、それは増えて光りだす。
ほしいな、と思ったときには彼女へむけて腕を伸ばしていた。たとえすり抜けるとしても、そうせずにいられない生き方をもうずっと選んできた。