novel2



Stab the key to the door.
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 付き合いが長いわりに触れ合う機会などはなく、彼との唯一の接触といえば学生時代、プリントを手渡すときに指先がかすめる程度のものだった。何気ない話をするときも、隣を歩くときも、男女としての距離感は常に保たれていたし、互いにパーソナルスペースを簡単に侵すタイプではなかったのだ。

「しっ」

 その彼の体が、今はすぐ背後に密着している。四本の指が私の口を強く塞ぎ、残った親指は固定するよう頬に食い込んでいた。私を抱え込みながらも、彼はどこか遠くの方へ意識を向けている。通りの向こうには数人の男の気配がした。荒っぽい声。ちらちらと揺れるライト。彼に口を塞がれなくたって、息をひそめた方がいいことはわかる。
 追手のことはもちろん気になるが、私を羽交い締めにする彼に対しても同じくらい意識が向いてしまう。服越しに感じる体温や、傍目に見るよりがっしりとした体格が私の五感を困惑させた。完璧に近い容姿も、隙のない性格も、どこか虚構じみているため彼に人としての温度がやどり、心臓がたえず脈打っているということが意外でしょうがない。普段ぺらぺらと戯言ばかり吐いている口からは、すこしだけ湿った吐息が規則的に漏れている。それが首筋にあたり、恥ずかしくてしょうがない。まるで同じ種族の生き物のようだ。彼のように容姿端麗な異性をこれといって意識せず付き合えていたのは、完全に別の生き物だと割り切っていたからだ。人間によく似た、折原臨也という名の亜種。私の知らないルールで生きる統合思念体。

「動くなって」
「……っ」
「ああ、苦しいの?」

 鼻呼吸ができないわけではないけれど、ただでさえ急な展開にさっきから息も動悸も上がりっぱなしだ。苦しくなって彼の体をタップすると、少しだけ手がゆるみ指の間からなんとか酸素をとりこめた。自然と唇で、彼の指を食んでしまう。ふうふうと呼気をこもらせる私を気にする風もなく、彼はちっと一つ舌打ちをして体勢を変えた。

「……!?」
「一人来る。息するな」

 無理難題をふっかけながら、今度は路地の隙間に隠すよう私の体を正面から押し込んだ。彼の短い命令口調はとても小声で、それゆえに逆らえないおそろしさがある。暗闇の中一瞬見えた目の色は、今まで見たことがないほど冷たかった。きっとこのような事態は臨也にとって珍しいことでなく、彼のカタギではない職業の中で何度も乗り切ってきたことなのだろう。だからこんなにもビジネスライクなシビアさが漂っているのだ。ふだん私を馬鹿にするときのような緩さは一切ない。彼の裏の顔を目の当たりにしていることも、鼓動が速まる要因の一つだ。砂利を踏む足音が近づいてきて、体がこわばる。
 臨也がこれほど警戒するのだから見つかったらただでは済まないのだろう。とんだ巻き添えである。私は夜の繁華街で、同級生である彼とたわいのない軽口を叩き合っていただけだ。いたずらな臨也の目が急に細められ、何か怒らせることを言っただろうかと不安に思った時にはもう、腕を引かれ路地に連れ込まれていた。臨也に敵が多いことは私だって知っている。数歩先まで差し迫っているらしい危険に、思わず彼のコートを握りしめた。私を安心させるためか、騒がれたら困ると思ったのか、臨也は私の頭にそっと手を添え、胸に押し付けた。緊迫しているわりに彼の鼓動には変化がない。気配を消すことに慣れているのかもしれない。

「……今なら動ける。一応裏道つかおう」

 どれくらい時間が経っただろうか。初めは恥ずかしかった体温も、今頼れるものはこれしかないのだと思ってからは縋るようにしがみついてしまっていた。一定のリズムを刻む臨也の胸に顔を埋めながら息を殺すこと、おそらく十数分。そう囁かれ、再び腕を引かれる。
 路地から出て人通りの多いところへ向かうのかと思いきや、彼はますます入り組んだビルの間へと進み、とあるビルの裏扉に鍵をさしこんだ。飲食店と中小企業のオフィスが入ったごく普通の雑居ビルの鍵を、どうして彼が持っているのかはわからないがひとまず中へ入る。さらにそこから暗く狭い廊下をいくつか抜け、複数のビル内を横断した。彼は行く先々の通用口の鍵をキーリングの中から一発で摘みあげ、次々ドアを開けていく。中にはまだ作業をしているフロアや、忙しそうに動き回る厨房などもあったけれど、彼は軽く手をあげ挨拶をするのみだった。従業員たちもなんてことないように会釈を返してくる。職場を突っ切る私たちを咎めるものは誰もいない。一体いくつのコネとお金でこの雑居街の一角を我が物にしているのだろう。改めて彼の規格外な財力と行動力を思い知る。散々歩いてようやくたどり着いたのは、私もよく知るビジネスホテルの非常階段だった。

「今日はここに泊まるといい」
「え?」
「俺と一緒にこれ以上動かないほうがいいし、顔見られてるとしたら、どこかで待ち伏せされてるかもしれないからね」

 ぞっとする言葉に、耐えていた足の力がかくんと抜ける。雑居ビルと違いいくらか明るいホテルの階段に安心した気持ちもある。

「誰に追われてるの? 一人でなんて嫌だよ。臨也も一緒に泊まって」
「俺も今日はここに泊まるか、普段あまり使ってない方のマンションに帰るつもりだけどさ」
「ここに泊まって」
「じゃあ、隣の部屋を」
「同じ部屋がいい!」
「……べつに俺はいいけど」

 腕を組み、へたりこむ私を見下ろしながら彼はため息をついた。巻き込んでおいて何の説明もしないなら、せめて気分が落ち着くまで一緒にいて欲しい。

「吊り橋効果みたいなもので俺におかしな期待をされても、何もできないからね」

 不遜な言葉を言い残し館内へ入っていった臨也は、まさかと思う私をよそに財布からカードキーを取り出した。

「どうして、鍵」
「このホテル、いつでも泊まれるようにしてるんだよ」
「たくさん持ってるね」
「そうだね。鍵ってのは、持ってる数でそいつの価値がわかるものの一つだ」

 なんてことない風にキーを滑らせ、彼はやはり我が物顔で踏み入る。私は自分のキーケースを思い返してみたけれど、自宅の鍵に原付の鍵に、それから職場のロッカーの鍵くらいしか思い当たらなかった。けれどきっとそれが普通だ。

「情報だってある種の鍵だ。俺は鍵を集めるのが趣味なのかもしれないね」
「そうやって人の心こじ開けた結果が、こんな危なっかしい生活なわけ?」
「はは、まあそうだね」

 さっきまで危ない橋を渡っていたというのに、彼はもう楽しそうに顔をほころばせている。自宅のような動作で冷蔵庫から缶ビールを取り出す臨也を見ながら、こんな男とは何度一緒に吊り橋を渡ったところで恋になんか落ちるものかと思った。

「震え、とまった?」
「……まだ」
「飲む?」
「いい」

 落ち着こうと息を整えながら、思い出すのは臨也の心臓の音だ。恋になんて落ちないけれど、抱きしめて眠って欲しいという願望はそれとは別だ。どうやら私と同じ哺乳類ヒト科であるらしいこの男によってもたらされた不安は、この男の体温でしか和らがないらしい。麻薬のような男である。腑に落ちないところは多々あるけれど、今頼れるのは彼だけなのだから手を伸ばすほかない。

「なにもしないで」
「わかってるよ。……けど、ビール飲まなきゃよかったな」

 冗談だかなんだかわからないことを嘯く臨也の背中に、ぎゅっと身を寄せる。そんなことを言いながらも、彼はベッドの端でずいぶんと長い間ビールの缶を傾けていた。心音が耳に響く。さっきよりも速いのはアルコールのせいだろうか。

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9th October, 2016


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