novel2








 目が覚めたとき──何かを忘れている気がするのだ。
 うっすらと汗ばんだ首筋をぬぐい、私は夢を思い出す。草原だろうか。肌に残るのは柔らかな植物の感触だ。まぶたの裏に映る黄昏のような、薄紅色。
「ここに居ればいい」
 どこまでも続くその色に、優しい声が重なる。
「この世の終わりのその先まで、ずっと」



「やあ名前。この前は驚かせてすまなかったね」
 空気圧の変わる音とともにスライド式のドアが開き、入ってきたのはまたもや意外な姿をした妖精王だった。銀髪に青の瞳。背中の羽は夢のような虹色である。妖精のイメージを正しく体現した彼の容姿に、私はやはり瞠目する。
「霊基、戻したんですか」
「ああ。カルデアではこの姿の方が都合がいい。悪い奴は多くいるが、心が腐り切った奴なんてここには一人もいないからね。わざわざ悪目立ちするのも面倒だ」
 たおやかな笑顔でそう言って、オベロンは回転椅子に腰かけた。水色のマントがふわりと風を含み、すぐに垂れる。反応に迷った私はすべてのサーヴァントにそうするように、まずはじっとその双眸を視診する。霊基の不調が初めに出るのは目だ。彼の瞳は青空のように澄み渡り、きらきらと外界の光を取り込んでいる。前回の検診時に見た、底のない湖のような仄暗さは少しも感じ取れない。
「それは自虐、ですか?」
「自虐なものか。事実だよ」
 彼の言う通り、カルデアに心の腐った者は存在しないだろう。英雄であれ反英雄であれ、汎人類史を守らんと召喚に応じた英霊たちは皆、人に対する情を持っている。それは敬意であり、憧憬であり、憤怒であり、悔恨であったりする。賛美であり、妄執であり、劣情であり、殺意であるそれらを携えて、サーヴァントらは自らを生み出した人類史を失うまいと、マスターに力を貸すのだ。
「でも……オベロンだってそこまで悪い存在のようには思えないけど」
「それはありがとう。反吐が出るほど嬉しいお世辞だね。俺の汚泥のような霊基情報を抽出しておいて、涼しい顔でそんな嘘がつけるとは役者に向いているよ、君」
 彼にはいくつもの顔がある。再臨状態によって入れ替わるそれに初めは驚いたけれど、どちらもが彼であり、それこそが彼の在り方であると納得してからは恐ろしさも和らいだ。
 確かに、まったく怖くないかと問われれば嘘になる。それでもこうして盾の喚びかけに応え、こちらの世界に召喚されたのだ。あちら側での彼の終わり──オベロン・ヴォーティガーンという存在の結末が、暗く深く底のないものであったとしても、その心根が腐り切っているとは思えない。
「なんてね。うそうそ。そんな顔をしないでくれ」
 一人称の時点で気付くべきだったのに、カルテに目を伏せていた私はいつの間にか彼の髪が影のように黒く沈んでいることに気づかなかった。獣じみた爪先が視界の端に映り込み、とっさに顔を上げる。
「俺の言葉はすべてが嘘だ。だから何を言われても気に病む必要なんてない」
「すべてが嘘?」
「そうとも。本当のことを言えないなんて、呪いだと思うかい?」
 だまし絵のように切り替わる姿形に動揺しながらも、私は深く息をする。私の仕事はフィジカル面のチェックであってカウンセリングではない。そう思っても、彼との会話をやめることができない。
「だがこの呪いにも利点があってね。まあ気楽なものだよ。なんせ、何を言っても本音がばれない」
 回転椅子の背をきしませてオベロンは笑っている。ここへ入ってきたときとは対照的な、見下すような笑みだ。
「わかる? つまり俺に本音なんてものはないのさ。想いは言葉にしたとたん嘘になる。まあべつに、誰にでもあることだよね」
「何を言っても、嘘に」
 その真意を汲み取ろうと考え込むも、彼のペースで戯曲のように会話が進行していることが不意に空恐ろしくなった私は、いっそ言葉遊びでも良いだろうと深く考えることをやめた。
「じゃあ、ついた嘘と反対のことが本音なのでは」
「馬鹿なの? 心ってそんなに単純じゃないだろ」
「まあ確かに、それだと何かを言うたびに本音がころころと移り変わって逆に疲れそうですね」
「適当なことを……それに言ったろ。俺に本音はないって」
 彼の嘘はあくまで発せられた言葉についてであり、心にまで及ぶものではないのだと思う。それなのに、こうして平気で嘘をつく。本音がない生き物など果たしているだろうか? そう自問したところで、私は先ほどから抱いていたうっすらとした不安感の正体に気づいた。嘘と二面性を振りかざす彼は、知性体の持ついやらしさそのものだ。人の描いた物語から生まれ、生き物すべてを憎む島の意志を継いだ男は、私たちに人間の醜さをありありと突きつける。
「……大事なことは言葉にしなければいい」
「はあ?」
「想うだけでいい。そうすれば嘘にはならないでしょう」
 言いながら、なぜ自分の胸が痛んでいるのかもわからず、私は彼のように無理やり笑みを作った。
「その、論破してやったみたいな言いぶり腹が立つな。思いつきで大層なことを口にするなよ」
「すみません。でもオベロンも言ったように、誰にでもあることだと思ったんです。大切な気持ちを言葉にするのって難しい。言わずにしまっておくことだってたくさんある」
「言葉にすると白々しくて?」
 迷いながらも頷けば、彼はハッと短く息を吐き、横を向いた。
「そんな白々しい言葉を、平気で口にする人間を知ってるよ。それもかなりマジで言ってるんだ。笑えるよな」
 笑みを作ることが難しくなった私は、カルデアのマスターを思い浮かべながら同じように白い壁を見た。
「眩しい」
 世界を背負う一人の少女は、私たちの光だ。
「そんな馬鹿は一人で充分だ」
 彼はなぜ召喚に応じたのだろう。同じ地獄を見るかもしれないのに。



 その日の検診は、先日の魔力リソース回収任務に就いた六騎のサーヴァントが対象だった。
 オベロンはバイタルチェックが済んだあと、小さく舌を打つと私がカルテに日付を書き終わるより先に、颯爽と姿を消した。霊体化したのかもしれないし、小型化してどこからか抜け出たのかもしれない。あまりに突然の退去だったため声をかける間もなかったが、何か怒らせることをしてしまったのだろうか。
 そんな懸念を吹き飛ばすがごとく、入れ替わるように舞い込んだのは花の香りである。
「あいたた、これじゃ手に豆ができてしまうよ。異聞体でいくつかの縁を繋いだからといって、張り切りすぎじゃないかなマスターは」
「マーリン。種火の回収、お疲れさま」
 杖を握っていたらしい手のひらを開きながら、冠位クラスの魔術師はそんな弱音を吐いている。彼は慣れた様子で回転椅子へ座ると、私が見るよりも先に私の目をじっと見た。私は再び大きく息を吸い、マーリンの両目を見る。誰にでもする視診だが彼のような眼を持つサーヴァント相手には、気を抜けない瞬間でもある。
 案の定、花畑を映し込んだような不思議な色にあてられて、一瞬のめまいに襲われた。同時になんらかの既視感を覚え、思考が鈍る。
「何度されても照れてしまうよね、この診察って」
 茶化すような声により我に返った私は、一つ咳をしてカルテにボールペンを走らせる。
「いつも通りですね。健康そうで何よりです」
 この未来的な施設においては古代遺物のように扱われるノック式のボールペンだが、私の要望に合わせて技術顧問が紙カルテを用意してくれたのだ。書いた先からカルデアの電算装置に転送されるミラクルな仕組みであるが、書き味としては素朴さを保っていて悪くない。なめらかなインクを白い紙に走らせていく。
「そういえば、私の前は誰だったのかな? 気配があったのに入ってみれば姿がない」
「ついさっきまでオベロンを診ていましたよ」
「ああ、彼か」
 マーリンは納得したように頷いて苦笑した。その様子に、先ほどのオベロンの舌打ちを思い出し首をかしげる。
「お二人は、何かあるんですか」
「ふむ。彼には随分と嫌われているようでね。ここへ喚ばれて初めてその姿を目にしたが……なるほどと思ったよ」
「初めて?」
「彼もまた、特別な眼と力を持っている。そのうえ活動範囲も被っていてね。やりづらい気持ちはよくわかる。いや、それにしても上手く隠れるものだ」
 異聞体であろうとも、汎人類が介入した瞬間にその世界はマーリンの観測範囲となる。あれだけ多くの関わりを持ったオベロンが、すべてを見通す千里眼から逃れられることなどあるのだろうか。
「マーリンはオベロンを目視できないの?」
「さすがに目の前にいれば見えるけど。ただ、視ることはできない。まあ、実際は目の前にすらなかなか現れてくれないけどね」
 彼はそう言って眼を細めた。マーリンは自分を妖精のようなものだと自称するが、本物の妖精とはあまり相性がよくないらしい。
「ふうん。マーリンにも視られないものがあるんですね」
「元からすべてが視られるとは思っていないさ。世界はそこまで私に優しくない」
 世界の果てに閉じ込められた魔術師にとって、すべてを視るという特権こそが変えがたい慰めなのだと思っていた。けれどそこに例外があっても、彼が動じる様子はない。
「ところで名前、今夜は暇かい?」
 それどころか、彼はいつもの調子で軽口を叩く。
「私に暇な夜はありませんよ。眠るのに忙しいので」
「つれないなあ。夢の中くらい付き合ってくれたっていいじゃないか」
「貴重な睡眠時間です。良質な眠りをとらないと」
「この上なく、上質な夢をお届けするけど」
 どこまで本気かわからない彼の誘いに、私はいつも少し迷い、距離感をうかがうための言葉を交わす。
「朝にはすっきり疲れがとれているような?」
「それは君次第かな。多少疲れが残るかも」
「……なんだかいかがわしいですね」
「まあまあ、そこは思っている通りだ。嘘はつきたくないのでね。その気になったら呼んでほしい」
 にっこりと笑んだマーリンの顔から他意は感じ取れない。先ほどまで会話をしていた妖精王とは似て非なる表情だ。
「あなたはいつでも正直ですね」
「正直? 初めて言われたよ。私には人としての心があまりないからね。できるだけ事実を伝えているつもりではあるけれど」
「本音、ではないんですか?」
「本音か……そういう意味では、私はいつでも本音だよ。なぜだかあまり信用してもらえないけれどね」
 人の心がないと言いながら、すべてが本音であると嘯くマーリン。本音がないと言いながら、すべてが嘘であると煙に巻くオベロン。比べてみれば対極である。けれど二人の持つ底知れない人外の気配は、時折りぎくりとするほど酷似していた。
「彼は、嘘しかつかないと」
「彼?」
「……いえ。少し似ているかと思ったんだけど」
 なのでうっかりそんな言葉を漏らしてしまった。近頃の私は仕事中だというのに思考が散らかりすぎている。
「ふむ。口説かれている相手に別の男を重ねるのはどうかな。心ある人間だったら傷ついているところだ」
 大げさに首をすくめながら嘆いたマーリンの、その仕草があまりにも嘘くさかったため、私はついむきになり語気を強めた。
「ごめんなさい。でもマーリンは、私のことを本気で好きなわけじゃないでしょう。だって夢魔のあなたは誰のことも──」
 言いかけて止めたのは、白い袖口が目の前で揺れたからだ。唇にわずかに触れた彼の指先からは甘い香りが漂っている。
「それは、言わぬが花ってものだよ」
 私の言葉を否定しないマーリンは、確かに嘘つきではないようだ。一ひら生まれた薄紅色の花びらが、床へ落ち、消えていく。彼の顔から目をそらすことができない。楽園を映す瞳から流れ込むのは、やはり強い既視感だった。


2021_08_28

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