novel2



Izaya Orihara
Lemonade


「古き良き喫茶店だよねえ」
 艶やかにニスの効いたソファー席の木目をなぞりながら、折原臨也は笑っている。店内には古いジャズが微かに鳴り、足元の絨毯は長い毛足が長年踏まれ、芝生のように押し潰れている。くたびれた印象はあるが、確かに趣深く、瀟洒だ。
「こういうところは客層が興味深いんだ。例えばあそこで話し込んでる男二人。某有名ミステリー作家とその編集だ」
「……」
「向こうはネズミ講勧誘の真っ最中。しかも相手は芸能関係みたいだね。ほら、スターバックスと比べれば席がゆったりとして、離れているだろう? だからみんな油断する。こうして耳を傾ければ簡単に聞こえるのに」
 彼はそう言うが、いくら耳をすませてみても私には三つ離れたソファー席の声などまったく聞き取れない。
「あいにく、私は耳が悪いみたいで」
「耳は例えだよ。彼らの発する雰囲気、身なり、持ち物、口の動きに、頼んだメニュー。そういったものさ」
 首をすくめる折原臨也の手元には、冷たいレモネードが置かれている。ミントの乗ったこの爽やかな飲み物や、黒づくめのカジュアルウェアから彼の職業を当てることは難しそうだ。
「情報屋なら、ブラックコーヒーでも頼んだら?」
「君のイメージって貧困だよね」
 むっとして、自分の手元に目を移す。アイスココアに、チョコケーキ。プロファイリングするとすれば「欲望に正直」「無計画」といったところだろうか。
「隙だらけ。場当たり主義の会社員女性。彼氏持ち」
「……指輪してないけど」
「彼氏は俺だよ」
 臨也はにこりと笑いかけ、結露した自分のグラスに指を添えた。彼の指には指輪が嵌っている。色気のあるものには見えない、簡素なものだ。願掛けか何かだろうか。
「私たち、きっと恋人同士には見えないよ」
「そうかな? お似合いだと思うけど」
「おかしな勧誘をする男と、それに引っかかる女に見えると思う」
「心外だな」
 心外とは言うが、それはほぼ事実だ。彼は私を事務所の秘書に誘い、私はそれに乗りそうになっている。
「魅力的なバイトだけど、事務作業だけにしては割がよすぎる。何か裏があるんでしょう」
「たまたま人手不足なんだよ。うちの第一秘書は気分屋だから」
「私もけっこう、気分屋だけど」
 だからきっとこの誘いにも乗ってしまう。そして案外気に入ってしまう。この男のクドさが嫌いではないのだ。ココアとチョコケーキを同時に頼む人間の感性を舐めないでほしい。
「俺は見たとおり、爽やかな甘酸っぱさが売りの情報屋さんだから安心してくれ。じゃあ早速、明日からのことだけど」
 イエスと言い切る前に月間予定を提示してくる雇用主の顔を見ながら、私はフォークを口に運ぶ。減ることのないレモネードは汗をかき、机をしとどに濡らしていた。

Thank you so much! 







Gilgamesh
Aojiru


 濃い緑の粉末を水で溶く私を見て、王様は顔をしかめている。
「この飽食の時代に、かくも贅沢なことよ」
 サプリの類には疎い私だが、この青汁というものに限っては昔からの習慣だった。けれど王様からしてみれば、市場に様々な食物のあふれ返るこの時代に、わざわざ粉末から栄養を摂取することは奇異に映るらしい。
「飽食とは言っても、資源には限りがありますからね。人は際限なく増え続けるし」
「ふむ。だから間引けと言うのだ」
 わがサーヴァントのちらつかせる世界征服の野望を横目に、私はケールの凝縮抽出液を一息に飲み干す。慣れてはいるものの苦味は変わらず、鼻から抜ける青臭い匂いに目をぎゅっと閉じた。
「ふはは、滑稽滑稽」
「む、王様も飲みますか? 最近は甘くて飲みやすいものも多いけど、私はなんだかんだこのエグいやつが好きで」
「被虐嗜好のある貴様らしいな」
 そこは放っておいてほしい。大体ギルガメッシュ王なんていうサーヴァントとこうして共に暮らせていること自体、その嗜好のたまものなのだと感謝してほしいくらいだ。
「どれ」と言いながら、私が作り足した青汁のグラスを傾ける王様を見ながら、そんなことを思う。王様は一口二口飲み下したあと「ぐぅ」と眉を寄せて口を拭った。
「あはは、苦いですよね」
「侮るな。この程度のケール飲み干せなくて何が英雄か。我を呻かせたくばこの三倍は持ってこいというのだ」
「すでにちょっと呻いてたじゃないですか」
 腹を貫かれても平気ぶる彼の顔を、こうまで歪ませる青汁の破壊力を思い知りながら成分表を覗き込む。野菜不足の解消に。心身の健やかさを保ちます。本当だろうか。
「でもまあ、私にとってはこの苦味が生活の一部になっているので。おかげで毎日健康ですし」
 辛酸がごとき王様の厳しさが、日常の一部になっているのと同じだ。私はぶつくさと言いながらも、最後までしっかりと完飲しているギルガメッシュ王の顔を見上げる。おかげで毎日──。
「貴様、何か不敬なことを考えているな?」
「いえ、毎日刺激的で楽しいです」
「たわけが。早く寝ろ」
 妙薬は口に苦し。毒を食らわば皿まで。この男が毒でなく薬であると信じながら、私は今日も彼と共に眠りにつく。

Thank you so much! 






Toru Oikawa
Melon soda


 メロンソーダにクリームを乗せるか否か。本当はそんなことだけで迷っていたいのだ。

「及川はさ、」
 浮いたり沈んだりを繰り返す、赤いさくらんぼを見つめながら私はついに口を開く。
「花火って好き?」
 ついにと言ったって、私たちがこの店に入ったのはつい十五分ほど前だ。けれど私にとっては一年越しの好機だった。
「花火?」
「今日、河川敷でやるんだって」
「ああ」
 そういやそんな時期か。及川はそう言って頭の後ろで腕を組む。
「ついでに言うと私は花火がすごくすご〜く、好きなんだけど」
「そうだっけ?」
「うん。今日見ないと後悔して爆死するくらい」
「そんな!?」
 突っ込んだ拍子にがたりと椅子の背を倒しかけた及川徹が、ここ宮城の地に降り立つのは一年ぶりのことだった。高校の部活を引退してすぐ、もう次の場所を見据えていた彼が、飛び立ち消え去るのは本当にあっという間のことだった。まるで野山を賭ける野生動物のように、その背を見ていたと思った次の瞬間には、目の前から消えていたのだ。
「向こうはバカンス真っ只中。この時期に寮でせこせこ練習しようものなら、悪魔にでも取り憑かれてるのかって笑われるからさ」
 そう言って、お盆休みに帰郷した及川は一年前より一回りたくましくなった腕と肩と、満面の笑顔を私の前に披露した。「おかえり」と言うのも忘れ、私はしばらくのあいだ口をぽかんと開けたのだった。
「そうなの。私は花火がすっごく好きだから、今日どうしても見に行きたくて」
「うん」
「しかも、どうしても及川と一緒に見たい深い事情があって」
「お、俺と見たい深い事情……?」
「そう」
 何だか方向性のつかめない展開に、ごくりと唾を飲む彼に向けて、私は真顔で頷いた。自分でもいったい何を言っているのかよくわからないのだから、及川にしてみれば意味不明だろう。こんな強引なデートの誘い方などきっとどこの誰もしないだろうが、それゆえにモテる及川も調子が狂っているようだった。
「どう?」と迫る私の迫力に、及川は「べつに俺、今日は用事ないからいいけど」と頷いた。拍子抜けするほどあっさりと返された承諾に今度は私が驚く。
「ほんと!?」
「せっかく日本帰ってきたから、日本の夏ぽいことしたいし」
 急に力んだせいで、かきまぜていたメロンソーダの奥深くへとさくらんぼが沈んでいく。本当はアイスクリームを乗せたかった。けれどなんとなくやめてしまった。太るかな、とか、ちょっと高いし、とかそんな理由で欲しいものを諦めるのは、あまりかっこよくない。席について、久しぶりに及川の顔を見ていたらなんだかそんな気持ちになっていた。その結果がこれである。
「今からどっかで夕飯食べて、歩って行ったらちょうどいいんじゃないの」
「うん。うん!」
 強く同意する私の上気した顔を見て、及川は少し黙る。途端に恥ずかしくなった私は、両手でコップを握ったまま目を泳がせた。
「ちなみにさ」
「……はい」
「俺と見たい事情って、教えてもらえたりするの?」
 首をかしげる彼の真意は読めない。困り果てた私は苦し紛れに「あとでね」と言ってストローを吸う。
 アルゼンチンの太陽を浴びたぴかぴかの笑みで、及川徹が胸を張っている。この夏の元気も勇気も、今日一日で使い果たす。そう決めて緑の泡を飲みほした。

Thank you so much! 






Sherlock Holmes
Milk


「なぜ今日は紅茶にミルクを?」
 カフェで居合わせる長身の男が、この建物の二階で探偵業を営んでいることは知っている。ロンドンに住まう者なら誰しもが知る新常識のようなものだ。
 そんな彼に挨拶をすることはあれど、こうして話しかけられるのは初めてのことだった。私は質問の意味を一度咀嚼し、けれども上手い答えが見つからなかったため、問いに問い返す。
「理由がなければ、ミルクを入れてはいけないんですか?」
「決まりごとが覆されると落ち着かない。しかるべき理由があるならば納得出来る」
 彼はそう言って、私の頭からつま先までを素早く眺めた。けれど欲しい答えは得られなかったようで、どこか不安げな様子で私の返答を待つ。確かに私はこの店でレモンティー以外を頼んだことはない。家でもそうだし、職場でもそうだ。
「……なんででしょう。自分でもわからないけど、今日はまったりとした気分だったから」
「……」
「ミルクティーでも飲んで、とろとろと微睡もうかと思って」
「その "まったり" だとか "とろとろ" だとかいう曖昧な言語表現をやめろ!」
 擬態語を憎んでいるらしい探偵は、私の説明を受けますます顔色を悪くした。そう言われても、彼の望んでいるような正当な理由なんていうものはこの世のどこにもないのだ。
「ああ、でも」
 そこまで考えて、ふいにあることを思い出した私は、子の癇癪を沈める親のような気持ちで言葉を続ける。
「あなたのお友達がミルクをたっぷり入れるでしょう。それで私も、と思ったのかもしれませんね」
「ジョンが?」
「ええ。天才助手のワトソンさんが」
「天才助手。初めて聞いた言葉だ」
 彼は半分ほど納得した様子で足を組み直すと、ストレートの紅茶を口に運び、溜め息をついた。
「ジョンは今二階でブログを書いている」
「また何か、事件を解決したんですか?」
「最近は週二だ」
「そんな物騒な街だとは」
 それではブログの執筆も間に合うまい。私もときおり目を通す、元軍医のルポルタージュを思い出しながらむうと唸る。
「そうだ。だから "まったり" "とろとろ" している暇なんかどこにもないんだ」
 この気忙しい探偵は、私が明日なんの脈絡もなく紅茶に唐辛子を入れたりしたらどうなってしまうのだろうか。少しだけ楽しみになり、カップの陰でふふと笑った。

Thank you so much! 

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